憲法の常識 常識の憲法

憲法の常識 常識の憲法 (文春新書)

憲法の常識 常識の憲法 (文春新書)

憲法の常識

百地章氏による「憲法の常識」は以下のようなもの。

確かに大変常識的。そして日本国憲法を「常識の憲法」とするため改憲に賛成の立場。

八木秀次氏と比べるとファナティックな感じはしないし社会契約説の部分もまともなので、『日本国憲法とは何か』(ISBN:4569628397)よりお薦めできる。

これを読むと「憲法学者」の多くがかなり世間の常識とずれた存在だというのが分かる。例えば自衛隊は学者の間では違憲というのが主流だという。独立国家は軍隊をもち自分で自分の身を守るものという常識が通用していない。以下はP.4、強調筆者。


 現在の憲法が施行されてから今年で五十八年、憲法と現実のあいだにも大きなズレが生じてきている。このような場合、国民の多くは憲法を改正し、憲法の条文を現実に合わせようとする。それが常識というものであろう。憲法といえども、あくまで国民が国家生活を営んでいくためのルールにとどまるからである
 ところが憲法学者の中には、現実を無視し、むりやり現実を憲法の条文に合わせようとする人たちが多い(同じ傾向は、マスコミ・言論界や政党の一部にも根強く存在する)。かれらは日本国憲法の理想主義的性格を語り、現実のあやまちを指摘する。そして現実を重視する国民の「無知」を密かに軽侮する。しかしながら、たとえ国民がそのような存在であったとしても、憲法はあくまで国民のためにあるのであって、憲法学者のためにあるわけではない。

鍛冶俊樹:『戦争の常識』(ISBN:4166604260)にも以下のようにある。これが常識だろう(P.88)。


 国防は国民の義務とする考え方は独立国として至極、健全だと言える。なぜなら国家の防衛を暴力団に委ねるならば、その国は暴力団のものであり、もはや国民のものではない。もしそれを外国に委ねるならば、その国はもはや独立国とは言えない。
 日米関係の議論で最も空疎に聞こえるのがこの点だ。「日本は米国の属国か」となじり反米自立を主張する。だが独立国であるためには国民が国防の義務を負わねばならない。国防の義務を論ぜずして反米を主張しても空虚なのである。

一方、「憲法学者」の世界はこうだという(P.114)。


 これに対して、少なくとも自衛隊違憲論者は憲法典至上主義に立ち、あくまで条文の厳格な文理解釈に固執する。つまり「国家不在」の憲法論である。それとともに、良くいえば理想主義、悪くいえば現実無視の観念論をふりかざす。したがって、現実的妥当性を重視するなどといった大人の常識は通用しない。

国家論なき戦後憲法

上記で「「国家不在」の憲法論」と批判されているように、本書はたびたび憲法学の世界における「国家論」の不在を指摘し、「国家論」の復権を訴えている。P.146にも以下のようにある。


 このように、常識を働かせればすぐ理解できることが、なまじ憲法の講義を受けたり憲法の教科書を読んだりしたために分からなくなってしまうのは、「国家論なき戦後憲法学」に大きな原因があるのではないかと思われる。<略>

これには私も思い当たることがある。教育内容に国家権力が干渉してよいのかという話題で少々護憲派の方とやりとりを行った。


# swan_slab 『<略>
なぜ国家が教育内容に強制力を行使できるか、というのは難しい問題ですね。』

# spanglemaker 『難しくありません。教育内容に強制力を行使できないならどうやって教育の質や平等を保証するんですか?』
# swan_slab 『>教育の質や平等を保証
その要請はどこから導かれるものでしょうか。』
# spanglemaker 『憲法第26条です。』


# swan_slab 『>国家は”権利”を平等に保証すべし
という命題はどこから導かれますか。』

当方が「保障」を「保証」としたのはミス。それにしても、こんな反応が返ってくるとは正直驚いた。

議論にあたり、国家には国民の権利を保障するという役割があるという認識が共有されないという事態。これなども「国家論なき戦後憲法学」の影響なのだろう。

愛国心と国家論

もっとも、この本で橋川文三ナショナリズム その神話と論理』を引用している箇所とそのコメントには反論がある(P.30)。


 したがって、そのような愛国心を育成するためには、意識的な努力や自覚的な営み、さらには教育が必要である。

しかし、「愛国心」も相当の部分が教育によらず自然に育まれることは、反日報道・反日教育の中でもサッカー競技場に日の丸が溢れ、君が代が木霊する光景からも明らかだろう。愛国心の自然発生に関して以下のブログが話題になったことも記憶に新しい(現在閉鎖)。

http://blog.livedoor.jp/akyoko3/archives/18605869.html

このため、私は愛国心教育は積極的にはせいぜい礼儀の教育に留め、あとは政治カルト集団に属する教師の(公務中の)反国家的行動を規制する(思想・信条には踏み込まず行動のみ規制する)消極的なもの、つまり国を粗末にしないためのものにすることで十分だと考える。

また、「ナショナリズム」は国家意識であり、愛国心はあくまで「パトリオティズム」だと私は考える。「偏狭なナショナリズム」はあっても「偏狭なパトリオティズム」はない。

とはいえ、以下の部分にはやはり同意(P.30)。


 その意味では、戦後の憲法論が愛国心の基礎となるような国家論をなおざりにし、あるいは国家と政府を区別しないまま批判的・否定的にしか説明してこなかったことについては、重大な責任があろう。

私もid:spanglemaker:20050319#p1のように書いたことがあるが、改めて思うに、愛国心に関する議論では、トンチキな言説を生みだしているのはまさしく、「国家論の不在」ではないかと思う。トンデモを語る上でまたひとついい言い回しを知った。