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クール!な憲法の論じ方(その2)

id:spanglemaker:20050516の続き。

価値観・世界観の多様性を至上の価値とする長谷部教授によると、「特定の価値観を押し及ぼそうと」する行為は非常に忌むべきものであるらしい。政治権力も特定の価値観を押しつけないよう気をつけないといけない。それこそが「立憲主義」だという。

立憲主義」という単一の価値観の押しつけはいいのだろうか? 閑話休題

こんな背景からか、長谷部教授の「立憲主義」には国家論がない。

従って、国家の重要な役割である安全保障も認めない。むしろ軍事力を保持することは立憲主義に相容れないとしている(P.12)。


<略>憲法9条は、軍の存在の正当性をあらかじめ剥奪し、政治への影響力を減殺するとともに、政治のプロセスが軍事問題について誤った選択をしないよう、選択肢の幅をあらかじめ制限するという狙いを持っている。

立憲主義」の生まれた近代ヨーロッパの諸国が軒並み国軍を整備したことや、憲法に国防の義務を規定していることには言及しない。

価値観の多様性至上主義と国家の統治を認めないという思想から、道徳的規範や新たな義務規定を憲法に盛り込むことについて以下のような批判が出てくる。


<略>彼らの本音のところを平たくいえば、「お前たちの心の持ちようは利己主義的でなっていない。それをただして、魂を入れ替えてやるために憲法改正案を用意してやったから承認しろ」という話である。よほどオメデタイ人でなければ、なるほどよく用意して下さいました、賛成いたしましょう、という気にはならないであろう(もっとも、利己的なのは他人だけで自分は利己的でないから賛成しようという本当にオメデタイ人もいるかもしれないが)。

現行憲法における日本国の統治機構の正当性の由来は社会契約説と言われる。従って、現在の政府は国民の持ち物である。また、現行憲法下で日本の政治の仕組みが民主主義であることも論を待たない。政治の行いはつまり日本国民の行いと見なすべきだ。

このように考えれば民主的な手続きにより憲法に道徳的規範や義務規定が盛り込まれるということは、国家権力がトップダウンに国民の「魂を入れ替えてやる」というものでは断じてない。

皆が道徳を守ろう、義務を果たそうという、国民相互の約束ごとということになる。

従って道徳的規範や義務規定を盛り込んだ憲法典を支持することが「オメデタイ」と揶揄されるいわれはない。

しかも、現行憲法からして既に道徳的規範としての役割を担っている。もちろん「三大義務」も現行憲法にあるのであるし。

だいたい、価値観が多様であったとしても、家族を大切にしましょう、自然環境を保護しましょう、いざという時は力を合わせて国(ネイション)を守りましょう、といった規定に対し、「自分たちの価値をフェアに扱っていないという恨みを買」い、猛反発を受けることなどあるだろうか。価値観は多様であっても、メジャーな価値観とそうでないものがある、という簡単な事実がこの先生には理解できていない。

恐らく高尚な文学ばかり見ていて目が曇ってしまったのだろう。大衆娯楽を馬鹿にしないで真面目に研究すればもっといい憲法論を構築できるのではないか。

憲法という国家の基本を規定する法典を語るのに、国家とはなにかという考察がさっぱり欠け落ちているというのは本当に奇妙に見える。私は長谷部恭男教授の憲法論はまったく支持できない。

付記すれば、国家論を持たず、国家が国民の権利を保障するという役割を認めず、国防も認めないというのは、別宮暖郎氏が指摘するマルクス主義者の特徴に通じるものがある。

長谷部教授の至上の価値は本当は価値観の多様性ではないのかもしれない。