「国家神道」をどう反省するか

id:spanglemaker:20050526#p2の続き。

+ 駝 _ 鳥 +5月22日の記事。


こうして政府の行為として神社に参拝してはならない理由は歴史的経験から説明されうる。司法審査においても、神道は他の宗教と違って、歴史的に政府と癒着しやすいことから、この宗教の歴史的性格上、国家と神道の結びつきを厳密に審査するべきである。<略>

+ 駝 _ 鳥 +5月26日の記事。


1945年のGHQ神道指令が象徴するように、すでに癒着状態にある場合には、政府の行為によって特定宗教団体に対して積極的に分離政策を遂行することも認められなければならない(一種のポジティブ・アクション)。学校や公共施設からことごとく神棚を撤去するなど神道だけを狙い撃ちにしたのは、国家神道という形ですでに結びついていたからであって、これ自体が政教分離原則あるいは平等原則に反している(すなわち神道弾圧!)とは考えられないだろう。

主張がかなり変化したようだ。

「政府と癒着しやすい」から「厳密に審査するべきである」、というのと「すでに癒着状態にある」から「積極的に分離政策を遂行する」というのではまったく意味が違う。

予防検束と現行犯逮捕の違いだからこれは大きい。私も別に現行犯逮捕が悪いとは思わない。

もっとも、後者の場合でも、別に「神道だけ厳しくしていい」という結論にはならない。

神道だけが特別に悪い」というなら、公立の学校から神棚を撤去したあと、例えばマリア様の像を建立した学校がないのはなぜか。

神棚を撤去した後、全ての宗教が平等に政治から分離されたからに他ならない。

国家神道」を否定してみせると一見かっこいいかもしれないが、「神道は厳密に審査せよ」ではただの差別主義だ。今日神道といえども平等に扱われているのは「国家神道」に油断してるのではなく、差別政策が「国家神道」と同じぐらい容認できないからだろう。私も「国家神道」の復活より差別政策の方が恐いと思う。