国家による統治を統治機構と統治行為に分けて考える。そうすると見えてくるのは;
- 統治機構の基本:憲法で明文化
- 統治機構の詳細と統治行為:法律で明文化
例えば日本国憲法前文と第十条。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
国民主権や代表民主制という統治の基本原則は憲法に規定され、主権者である日本国民の具体的な定義は法律に規定される。
法律は国会で選挙で選出された議員が定める。一方憲法は、第九十六条に改正に関する規定があり、国会が発議し、国民投票で承認を得る。民主的な手続きにより改正が可能という点ではどちらも変わらない。
ただ、統治機構の詳細や統治行為そのものに関するもの(法律)と、統治原則とで改正の手続きが同じでよいのかどうかは議論の余地がある。この答えは国により、時代により異なり、いわゆる硬性憲法と軟性憲法という憲法の改正の難易度の違いとなる。
工学部出身の私が大まかに考えていることは上記の通り。ちなみに現行憲法は硬すぎると思う。国家の統治機構とはいえ、所詮人が作るものだから完全ということはないし、人が生きる上でのルールなのだから、生きる環境が変わればルールも見直しが必要になる。改正が難しすぎるのはよろしくないだろう。
さて、ここで長谷部恭男教授の御説を拝見。『論座』、2005年6月号のP.14。
憲法がなぜ、通常の法律よりも変えにくなっているかといえば、意味のないことや危なっかしいことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立法プロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。不毛な憲法改正運動に無駄にエネルギーを注ぐのはやめて、関連する諸団体や諸官庁の利害の調整という、憲法改正論議よりは面倒で面白くないかもしれないが、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家の方々が時間とコストをかけるようにと、憲法はわざわざ改正が難しくなっている。<略>
「立法プロセスで解決できる問題」と改憲で解決すべき問題は別で、それゆえに改正の難易度が違う、という主張だから上に私が書いたことと同じ。
問題は、「立法プロセスで解決できる問題」と改憲で解決すべき問題を同列に扱っていないこと。改憲で解決すべき問題の存在を矮小化しようとしている。
改憲の議論を「意味のないことや危なっかしいこと」「不毛な憲法改正運動」と決めつけ、その行為を「無駄」と断じ、<改憲で解決すべき問題>があたかも存在しないかのよう。
このため、長谷部教授の記事は<改憲で解決すべき問題>が存在しそれが重要であると認識している者とは相容れない。また、そういう者を説得するような内容にもなっていない。読んでいてどうもおかしいと感じたのはこういうことかと気づいた。護憲改憲の是非以前にこの時点で紙資源の無駄だ。意見が異なる相手を説得する意図がないのであれば言論としていかほどの価値があろう。
こんなことよりもっと言いたいのは、憲法改正の論議が「不毛」だと勝手に決めつけるな、ということ。憲法改正の論議が不毛かどうかを決めるのは主権者である国民だ。長谷部教授はそのうちの一人でしかない。それなのに、何か特権があると勘違いしているのではないか。
長谷部流の「立憲主義」について、この記事では以下のように書かれている。
人間らしい生活を送るためには、各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そのための枠組みが必要である。
でありながら、<改憲で解決すべき問題>が「大切だと思う価値観」は尊重する意思がカケラもない。「立憲主義」が聞いて呆れる。
それ以前の問題として、各人の利害調整を明文化したルールで行いましょう、というのは「立憲主義」ではなくただの法治主義ではなかろうか。この記事からは長谷部教授の「立憲主義」の何が素晴らしいのかまったく分からない。