朝日の社説−男女共同参画社会

階級闘争」を男女間にあてはめたものであるフェミニズムの末裔、ジェンダーフリー思想に今逆風が強まっている。それが今日の朝日新聞社説のお題。


 中山文科相は「ジェンダーフリー教育だとか過激な性教育とかがはびこっている」と語った。自民党安倍晋三幹事長代理は、カンボジアで大量虐殺を引き起こしたポル・ポトになぞらえて、ジェンダーフリーを「家族の破壊だ」と批判し、こうした考えの背景には男女共同参画社会基本法がある、と述べた。

このお二人の意見はまったく正しい。

「過激な性教育」は共産主義革命の一環である性の解放が形を変えたもの。家族・家庭も「階級闘争」による世界観とは相容れず、これを破壊するには男女の性差を徹底的に否定するのが都合がいい。

男女共同参画」構想の何がいかがわしいのか。共産主義だから、では思想弾圧みたいでよろしくないだろうから(個人が言論で嫌悪感を表明するのを「弾圧」とは言わないが)もう少しはっきりいかがわしさを指摘したい。


女性が研究と子育てを両立できるようにしたい。そのためには、職場の近くに保育施設をつくったり、育児休業を取っても研究にもどりやすい環境を整えたりしなければならない。


 男女が平等に活動できる社会を目標に、格差を埋める努力を重ねた北欧諸国は経済でも高い競争力を持っている。

社会制度として格差を無くす、機会の平等を保障することは正しいだろう。

しかし、この事業は結局、結果の平等にこだわっている。


 大学や民間企業で働く女性研究者の割合は11・6%で、国際的に見てかなり低い。32・5%の米国、27・5%のフランスなどに大きく水をあけられている。

機会の平等が不十分であるのか、日本人がそのような性向なのかは分けて考える必要がある。

そして下記の通り。


 中学2年生を対象にした気がかりな調査が白書に紹介されている。女子生徒の多くが、理工系分野の仕事に就いても親や教師に喜んでもらえないと感じているのだ。

個人がどのように感じるか、にまでそうたやすく踏み込んで欲しくないものだ。

「機会の平等」を訴えることと人々の「男女観」を変えることはそれぞれ別であり、常々「内心の自由」がどうこう言っている進歩的言論がなぜこのように「男女観」にだけは平気で他人の価値観を否定できるのか不思議に思う。

そして;


 進展の遅い男女共同参画に、このところ向かい風が吹いている。「ジェンダーフリー」というあいまいな言葉が混乱の要因の一つになっているようだ。

 性別で生き方に枠をはめるのではなく、一人ひとりの個性や能力を発揮できるよう制度や慣習を改めていく。そんな意図がこの言葉には込められている。

なぜ「ジェンダーフリー」に逆風が吹くのかといえば、ここに凝縮されている。

「個人の生き方」に干渉してくる性質をもっているからだ。

「制度を改める」のと「習慣を改める」のはぜんぜん違うというのがわからないのだろうか。「制度を改める」のは人が行動するルールを変えるだけだが「習慣を改める」のは人の心を変えなければならない。

社会の制度をよくしようとするのはかまわないが、安易に人の感じ方や人生観をとやかく言ってほしくないものだ。

人は性差にとらわれずに生きる自由がある。しかし、性差に誇りをもってて生きる自由もある。

一昨日の『ルポ戦争協力拒否』と同様、他人様の「自由」をどうこう言うわりに、自分の意に沿わない自由は認めようとしない。「男女共同参画」のいかがわしさはここにある。