- 作者: 小堀桂一郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 1998/07
- メディア: 新書
- クリック: 29回
- この商品を含むブログ (29件) を見る
献身の美徳と日本人の信仰心から靖国神社の由来と意義が自然に導かれる。
自分にとって大きく読み応えがあり、勉強になった。
本書の初版発行は1998年。昨今また靖国問題が注目されたため再版されることとなった。靖国問題の様相は1998年当時と今とでほとんど変わっていない。現在もその議論の中で有用な文献の一つと考えられる。
要所に貼付した付箋は約30枚になるが、その全てを挙げてコメントするわけにもいかないので、特に紹介したいものだけ以下に挙げる。
小堀氏は靖国神社が普通の宗教団体(いわゆるchurch)とは異なるとし、現行憲法下であっても国家護持が可能と考えている(P.141およびP.202)。政教分離原則と靖国神社の関係を考える上で参考になるだろう。
蘘國神社は御創建以来、国事殉難者の招魂慰霊の場であり、それは我が国人の古来の伝統たるみたま信仰と結びついている。だがそこには宗教としての教義があるわけではなく、教会が組織されているわけではなく、遺族会は宗教団体ではなく、蘘國神社の如何なる儀式、祭典をとってみても、それを布教活動と見ることは到底不可能なものばかりである。<略>
蘘國神社は宗教施設でもあることを認めた上で、更に国民道徳涵養のための教育施設としての意義を重視するが故に、国家による護持・運営が妥当である、との理論的結論は出る。<略>
私としても、日本国にとっての靖国神社とは、「神社」で英霊をお祀りするということは、キリスト教国の国旗に十字架が、イスラム教国の国旗に三日月が描かれているのと同じように、民族の宗教的アイデンティティの現れであり、政教分離原則を持ち出して否定するものではないと考える。
しかし小堀氏は、ここであえて国家護持を否定する。今現在の日本に靖国神社を預けるのは疑問だという。これは一つの風刺であるし、靖国神社がネイション・ステイトのネイションに属するものであり、ステイト、国家権力の持ち物とすべきでない、という認識とも受け取れる(P.203)。
<略>著者の知るかぎり、この貴重なお社を日本の国なんかにあずけるわけにはゆかない、という心境である。では蘘國神社の永続について将来にわたる不安は無いのか、という問題になるのだが、その不安は大体において無い、と言ってよいだろう。現在、既にその形をとっていると言えるのだが、国家護持ではなくて国民護持である。国民全てが蘘國神社の氏子となり、氏神としてこの神社を守ってゆく形をとればよい。氏神様が、地域共同体の土地と人々の生活の守護神である様に、蘘國神社は国土の安泰と国民全体の繁栄と安寧との守護神である。そう思えばよい。
もちろん、それでも政治家の公式参拝など、公的な慰霊は必要と言う(P.191)。
<略>総じて日本の公的機関の構成員は公的資格のままに蘘國の祭祀に参加したり、参拝したりすることが認められない。
そうなると、日本という国は、国事殉難者の霊に対して公的行事として感謝・報恩の儀礼を捧げる方途を持たない、文明国としては実に異例の忘恩国家だということになってしまう。蘘國神社に鎮まります二百四十六万余柱の英霊に対してあまりにも冷酷な忘恩の仕業であると共に、およそ国家としての品格を欠いた、文明国にあるまじき礼の精神の欠如した国だとの評価を作ってしまうことにもなる。それでもよいのか――との重大な問いかけがここに生ずる。
首相の靖国神社参拝などに反対する向きは、上記に対し対案を用意すべきだろう。あるいは上記は一つの価値観の表明に過ぎないから、説得力をもって否定できるというのだろうか。
さて、最後に、靖国問題のみならず、戦前の日本を考える上でのキーワードを紹介したい。小泉八雲の『神国日本』に関して(P.101)。
<略>しかし彼はそれまでの日本観察の蓄積と経験が直感の力となって、天皇と庶民との間に通い合う無言の交感を確実に読みとっていたと思われる。
「天皇と庶民との間に通い合う無言の交感」。これを読み取れるかどうかで、戦前の日本の評価は大きく変わるだろう。