Great Spangled Weblog

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議論の非対称性

「異星人が地球に来ている」、と信じる人との架空の対話。

その1。

「○○という資料によるとA氏は金星人に電車で乗り合わせたそうだ。やはり異星人は地球に来ている」
「金星に生物はいません。その資料では『異星人が地球に来ている』という命題は証明できませんね」

その2。

こりん星人をつれて来ました」
「その人はフィル・コリンズです」

以上のように、「異星人が地球に来ている」という命題は根拠を否定すれば真とはならない(偽ともならないので信じたい人は信じていてかまわないけれど)。

逆の場合はどうか。「異星人が地球に来ていない」という命題を証明せよと迫られた場合。

その1、挙証責任の転換を指摘する。

「たしかにこの人はフィル・コリンズかもしれない。しかし、だからといって異星人でないとは限らない。本当にフィル・コリンズは地球人と言い切れるのか? 異星人ではないというならその証拠を出せ」
「それは挙証責任の転換です。どう見ても地球人のフィル・コリンズが異星人であるというなら、彼が異星人であるという証拠を挙げてください」

その2、否定する側が傍証として挙げた根拠が否定されても、否定されている命題が真とはならないことを指摘する。

「『地球人に見える』などというのは異星人でない証拠にはならない」
「彼は1970年からジェネシスのメンバーですが、X氏の説によるとこりん星人が地球に最初に来たのは1983年となっています」
フィル・コリンズこりん星人だなどと誰が言いましたか。別の星から来た異星人であるなら1983年より前に地球に来ていてもおかしくないじゃないですか」
「確かによく考えるとあなたはフィル・コリンズこりん星人とは言っていませんね。でも、私の誤りをどう指摘しても、フィル・コリンズが異星人であるということの証明にはなりませんよ」

あまり上手い例ではないかもしれないが、上記のように、資料の信憑性の影響というのは議論の中で非対称性をもっている。

「異星人が地球に来ている」というような命題を証明するには、検証に耐えうる証拠を出さなければならない。そして、肯定する側の論拠が否定されるごとに、反対の「異星人が地球に来ていない」という命題は説得力が増してくる。

一方、「異星人が地球に来ていない」という命題は「悪魔の証明」であって直接証明はできない。しかし、この命題に符合する傍証を挙げて命題の確からしい印象を高めることはできる。

ここで注意が必要なのは、「異星人が地球に来ていない」という命題の傍証をいくら攻撃しても、それは傍証が使い物にならないということであって、決して「異星人が地球に来ている」という命題が真になるわけではない、ということ。

「異星人が地球に来ている」ということを信じきっている人は、「異星人が地球に来ていない」という話を否定すれば自分の正しさが証明され、それゆえ自分の信念まで肯定されると勘違いしてしまうように思える。

「異星人が地球に来ている」という命題を証明するのに重要なのは、否定的意見の揚足とりをすることではなく、「異星人が地球に来ている」証拠を提示することだ。それが非のうちどころのないものであれば、議論は肯定派有利に収束するだろう。

以上はあくまで架空の議論であるが、「異星人が地球に来ている」という命題を「血液型と気質は関係ある」だとか「従軍慰安婦を強制連行した」だとか「南京で日本軍は無辜の市民を組織的に大量虐殺した」とかに変えると、実際の議論の様相とさほどかけ離れてはいないと思うのだがいかがだろう。