扇動はいけません

話題の速水螺旋人氏の日記を読んだ。9月2日〜3日の分。


ウェブで不特定多数に向けて嫌韓ネタ、憎悪や嘲笑を煽るようなネタは自重しよう!

結論は同意、というかあたり前。

WEBのような公共の言論スペースで憎悪を煽るべきではない。何かを告発したければ「事実」を提示し、その事実に対しどう感じるかは閲覧者に任せるほうがよいだろう。憎悪や嘲笑を閲覧者に求め、そのために事実をねじ曲げたりするのはよくない。

と、結論だけみるとマトモなのだけど、私もこの論考には同意しかねる。

要するに、韓国・朝鮮ネタというのは「他者」を意識させることによる
「自分たちは『普通』だ」「仲間だ」という帰属先作りに他ならないのです。

つまり韓国・朝鮮ネタがよくないのは、そこに「他者」の境界を設けようとしているからだという。

そしてどうしても「他者」としたいならその根拠をはっきりさせよという結論となる。

ネタにしたいときは、なぜそれを書くのか一旦振り替えれ!

これでは、「他者」なら憎悪や嘲笑を煽ってもいい、ということになる。そうではなく、扇動がいけないのはネタが嫌韓だろうと反日だろうと同じこと、「他者」がどうこうなど関係ないことだろう。

「他者」をつくることを忌避するのは、マルクス主義の考え方だというのを的場昭弘:『マルクスだったらこう考える』(ISBN:4334032818)という本で知った。以下はP.176-177。

 さて、ここで「粗野な共産主義」を引き合いに出したのは、私的所有社会(言い換えればそれは資本主義社会そのものなのですが)はかならず「他者」をつくり出すという特性があるということ、逆にいうと「他者」をつくり出すのが、私的所有社会ということです。「粗野な共産主義」を廃止し、共同所有にするといいながら、女性を排除することで、むしろ徹底して「他者」をつくり出しているのです。
 マルクスは「粗野な共産主義」を、共産主義とは認めていません。彼のいう共産主義とは、誰も排除されない社会、誰も「他者」をつくらない社会であるということです。

このような考え方は反差別主義であるように見えるが、一方、「他者」という存在を意識の外に追い出してしまったことで、事実上の「他者」に対しては容赦ない攻撃を認めてしまうことになるのではと危惧される。もしそうであれば、攻撃すべきでないと考える相手は「他者」ではないことを強調するであろうし、攻撃してよいかどうかの価値判断に「他者」との境界を持ち出すことになるかもしれない。

これに対して、「他者」の存在をなくすことはできない。むしろ、人は「他者」に対して何をしてもよいわけではない。「他者」を排除するのがいけないのであれば、それは「他者」をつくりだすことではなく、「排除」という行為に正当性がないからだ。そのように考えるべきではないか、といった反論が考えつく。

元にもどって、韓国・朝鮮ネタに対して警告するのであれば、私なら、「『他者』であることを意識させるとポグロムが起きる」ではなく、「どのような『他者』の境界であってもポグロムを正当化する境界はない」としたい。「ポグロムを正当化する境界」の存在を否定してくれていないところが違和感の元なのだと思う。