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私が朝鮮半島でしたこと

私が朝鮮半島でしたこと1928年‐1946年

私が朝鮮半島でしたこと1928年‐1946年

戦前、朝鮮に渡って土木事業に従事した人の手記。表紙などの写真も合わせて、日本による統治に関する貴重な資料。

例えば橋を架けて地元の人がどう思ったかがこんな具合に書いてある(P.70)。

 赤壁橋が完成したときには、そうとう地元の振興になるということで、住民からも喜ばれた。それまで雨期にはしょっちゅう氾濫して、一週間も水が引かないことがあったらしい。そのため、架橋と並行して、ほかの業者が堤防工事をやったので、地元の人は宴会を開き、たいへん喜んでくれた。

最初はほのぼのした雰囲気があるが日華事変、太平洋戦争と時間が進んでいくと何かと余裕がなくなってきて雰囲気が重くなってくる。

昭和13年頃からは大陸への輸送力増強のため鉄道工事にたずさわるが、その状況はこんな具合(P.92)。

 ちょっとでも下手な工事、おかしな仕事をすると、文句を言われるのはもちろん「非国民」とののしられる。ここは松尾組、あちらは何組と、全部並ばされて競走させられるので、後ろから鞭打たれているような感じだった。

本の最初の方では、著者が朝鮮語を覚えて朝鮮語で指示を出したりしているのだが、後半では朝鮮語が規制されて日本語を使うようになる。

昭和19年になると朝鮮人も徴兵されるようになったため、現場では女学生や囚人を使うようになる。著者は囚人のために現場近くに刑務所を作った。

神社への参拝も強制された(P.152)。

 安州には安州神社というのがあって、朝鮮の人もなかば強制的に参拝させられていた。私たちの事務所にもそのような教育をするようにという指示が来ていたので、朝礼のとき定期的に朝鮮人幹部も引き連れて安州神社に参拝に行くようにしていた。

この神社は終戦後間もなく燃やされてしまう。

戦争で余裕がなくなってから、朝鮮人への日本への同化策が強くなっていったように思える。戦争がなく、朝鮮での社会資本整備を十分行うことができて、その上で朝鮮を独立させられていたなら、彼らの対日感情はずっとよくなっていただろうと思えて惜しい。

敗戦後、著者は家族とともに、進駐してきたソ連軍により収容所に入れられてしまう。その収容所というのは、先述の囚人用刑務所で、著者は<自分達が作った刑務所に入れられた>と嘆いている。

戦後1年程して、著者は妻と子供4人を連れ、他の日本人家族らとともに収容所を脱走し、さんざん苦労しながら300kmを移動して38度線に辿りつき、韓国側に逃げ延びて帰国を果たしている。敗戦からここまでの部分はハラハラしながら読んだ。

朝鮮人は戦後、手のひらを返すように日本人に冷たくなったと言われるが、この本によると朝鮮人も一枚岩ではなく、もう少し状況は複雑だったようだ(P.170-171)。

 医者の洪さんや韓さんは別として、以前つきあいのあった朝鮮人が収容所に訪ねてくるようなことはなくなった。いろいろな風評があって、日本人のところに行くのは何かがあるからだと朝鮮人のあいだで噂されるような向きがあった。それで、しだいに足も遠のいていったようだ。

 戦時中、日本人のすぐ下で働いていた朝鮮人は追い払われ、いまでは地下組織から出てきた共産党の人たちが力をもつようになっていた。私たちの組の幹部だった朝鮮人も、終戦後すぐ、南の人たちはそうっと逃げだして故郷に帰っていった。安州のあたりはそういう点では危険なところだったから、彼らは日本人以上に逃げたかったかもしれない。とどまる人はいなかった。

 また、もともと安州に住んでいた朝鮮の人でも、新しく力をもった地下組織の人に強い反感をもち、あいつらのためには働かないぞ、という人も多かった。仕事のこともあって、日本人に行かれてしまったら困ると思ったのではないだろうか。

 そのうち、旧地主や金持ちの朝鮮人の郡外追放が始まった。共産党員らの手で強制的に牛車一台きりの生活道具を査定され、あとの財産も家もすべてを取り上げられて郡外に追放されるのだ。ゆるゆると進む牛車のあとから一族が泣きながらついていく姿は、日本人の目から見ても哀れでならなかった。

 小作人以外の朝鮮人はみな、次の追放者はだれだろうかと、不安な日々を送っているようだった。なかには収容所の日本人を羨ましく思う人さえあったという。なぜなら、日本人はいつか国に帰る希望をもっている。しかし、われわれはいつ追放されるかわからない。しかも、祖先から長く住みなれた故郷に二度と帰れないかもしれない。希望も何もない、というのだった。

少なくとも、朝鮮人全員が北朝鮮建国をよろこんだのではないことがうかがえる。

著者は、安州の工事が終われば食糧事情もいくらかよくなっていただろうと、北朝鮮となったかの地の人々を気遣っている。

私も、本に出てくる38度線より北の人々のその後は、とても心配になった。

本書については以下のページにも詳しく書かれている。

http://www1.u-netsurf.ne.jp/~asakyu/a_jouhou/a0205_22.html