「悪魔祓い」の現在史

「悪魔祓い」の現在史―マスメディアの歪みと呪縛

「悪魔祓い」の現在史―マスメディアの歪みと呪縛

かつて朝日新聞にいた稲垣武氏が主に報道を批判しながら時事を評する本。著者の主張がいちいち正論であり、進歩的言論の欺瞞を次々にあばいて楽しく読める。

扱っている時事は10年と少し前の1996年〜1997年。オウム事件、ペルー人質事件、酒鬼薔薇事件、日米ガイドライン見直しなどが多く言及されている。

以下気がついたところ。

加害者の人権ばかり気を使い被害者の人権を軽視しがちな報道にこのように言う(P.31)。

 法律とか制度は、基本的に善良な市民が安全で快適な生活を送れるために存在するのであって、犯罪者の人権を無条件で擁護したり、「人権」という抽象的概念を絶対化するためにあるのではない。「人命尊重」も同じである。人命は無条件に尊いのではなく、ここの人間がどのように生きたか、生きているかによって価値が決まるものなのである。

他のところでも<人の生まれは平等だが死は平等ではなくどのように生きたかによる>といったことを書いている。進歩的言論ではあえて論じないが直感的にはそうだろう。死刑囚の命の重さを訴えて死刑廃止を唱えても世間に響かないのはしごく当然。

日米ガイドライン見直しについて『ニュースステーション』で高成田享氏が「憲法の枠の外へ踏み出す」「相当危険水域に入る」と発言したことに対してこう反論する(P.32-33)。

 有事の際の日米協力が円滑にいかなければ、日米安保も仏作って魂入れずになってしまう。日米安保実効化のための集団安全保障容認を明文化する際に憲法改正の必要が生じれば、やるしかない。要は国民の安全のために何をすべきかであって、憲法残って国亡ぶでは喜劇にもならない。高成田氏の言はその本質を忘れた「初めに憲法ありき」論、憲法神学化論なのだ。ことごとに平和憲法を錦の御旗に担ぐ朝日新聞社員としては当然か。

今、北朝鮮のミサイルの脅威がリアリティを増している時、「国民の安全のために何をすべきか」は当時よりいっそう重要な問題になっている。憲法ありきでミサイル基地を攻撃せず放置するのか、憲法ありきで自衛隊そのものを違憲とし、ミサイル防衛さえも否定するのか。「憲法改正の必要が生じれば、やるしかない」が最も合理的な考えではないだろうか。

在日外国人への参政権付与などは「明白な逆差別」だという。

121ページ。

 国家なり地方自治体が国民に付与している権利、参政権社会保障の受益権は、言うまでもないが国民が国家や地方自治体に負っている義務と引き換えに保障されているものなのだ。義務を遂行せずに権利のみ与えよなどと要求するのは虫がよすぎる。<略>

122ページ。

<略>日本国民と同等の権利を要求するなら、日本国への忠誠を誓うのが当然ではないか。ところが在日韓国人のなかにはことあるごとに日本を悪しざまに罵る人たちも少なくない。日本を呪いながら日本国民と同等に扱えというのは、少々身勝手ではないのか。

別に日本を罵ってもいいけど、日本人と同じになりたかったら日本に帰化すればいいのにといつも思う。よほどの国士様でないかぎり「帰化は許さん!」とは言わないと思うし、在日の半島の人の帰化が制度として極めて難しく他の外国人に比べて差別的だ、という話も聞かない。帰化が妨害されているなら「外国人差別反対!」と堂々ととなえてもらっていい。しかし帰化したくない、権利は欲しい、というのでは納得し難い。外国人の権利を何でもかんでも日本が保障する義理はないしそれは差別ではない。外国人の権利はその祖国が保障している。「権利が保障されている」ということにおいてここに差別はない。

南京大虐殺に関して朝日新聞マボロシ派と戦っているとして以下のように書いている(P.131)。

南京大虐殺」については、南京陥落当時の市民の総数を上回る、三十万人もの非戦闘員を虐殺したという中国側の宣伝は根拠が薄弱で、個々の兵士による、あるいは一部の部隊による非違行為(その大部分は投降してくる中国兵を捕虜とせず殺した、あるいはいったん捕虜にした後で取り扱いに困って殺したというもの)はあったものの、軍として組織的に非戦闘員を虐殺した事実はなかった、しかも犠牲となったのは戦闘員も含めて、多く見積もっても数万人のレベルではないかという異論が有力なのだ。

私の印象としても、右派の中で秦郁彦説さえ否定してマボロシ派を唱える人はそれほど多くないように感じている。マボロシ派でなんでもコミンテルンの陰謀とする田母神氏など右派からの批判も多い。

読んでいて声を出して笑いそうになったのはここ。ペルー人質事件の「武力解決」に対するコメント(P.188-189)。

 もっとも、テレビのニュース・ワイドでは早くも当日夜のTBS「ニュース23」で筑紫哲也キャスターが「武力突入の犠牲者は十七人」とコメントしている。武力突入の際に死んだ人質のペルー最高裁判事も戦死したペルー軍人二人も、射殺されたテロリスト十四人も十把ひとからげに「犠牲者」扱いするなど沙汰の限りで、筑紫氏の倫理感覚はいったいどうなっているのか不可解である。

 筑紫氏はふだん、犯罪の被害者も犯人も等しく犯罪の犠牲者と見なすことにしているのか。テロリストとの交渉に当たったシブリアニ大司教は「MRTAも同じ人間であり、その死を悲しむ」と述べたが、それは宗教者として当然の言葉であるとしても、かつて同番組で他人の言葉を借りて、沖縄で戦った日本兵を「鬼」呼ばわりした筑紫氏が、テロリストには突如として広大無辺の慈悲を示すとはお笑いだ。

「平和主義」が戦争を招きかねないという逆説(P.200)。

 仮に、日本が集団的自衛権を認めており、有事の際の米軍に対する協力体制も整備され、国民も空念仏平和主義から完全に脱却しているならば、北朝鮮も日本焦土化計画はおろか、南侵すらためらうだろう。いかに無謀な独裁者といえども百パーセント勝ち目のない戦争は仕掛けないだろうからだ。となると、朝日が提唱する「平和主義」が、戦争の抑止力を弱め、逆に戦争を招き寄せることになる。

 これは、テロに対して「平和的解決」のみを声高に叫び、最大限の譲歩をすることが逆に新たなテロを誘うのと同じだ。もっとも、政府や朝日のいう「平和的解決」は本来の意味ではなく、「武力行使忌避」を言い換えたものにすぎない。テロの解決方法としては「平和的解決」と武力解決の二つの選択があるが、両者はそれぞれが孤立しているのではなく、テロリスト側の態度によっては武力突入もあり得ることを常に示唆しながら、相手に無用な妥協をせず人質を解放させるのが原則なのだ。

ここで言う「原則」は北朝鮮による拉致問題にも当てはまるだろう。「武力突入」を示唆することが今の日本ではできない。李明博政権になって韓国と連携がとれる可能性が高まったことは大きい。軍事的圧力は否定するのではなく、その行使も示唆しながら、一方で民衆蜂起などが起きるよう非軍事的な工作も行って金正日政権転覆を計るのがよいと考えられる。