生命 最初の30億年

生命 最初の30億年―地球に刻まれた進化の足跡

生命 最初の30億年―地球に刻まれた進化の足跡

多細胞生物が爆発的に進化したカンブリア紀が約5億年前。それ以前の地球は単細胞の微生物が住む世界だった。しかし、その長さは30億年に及び、カンブリア爆発以後の歴史に比べてはるかに長い。

本書は生命誕生からカンブリア爆発までの30億年を語る本。内容はamazonに概要があるが、以下のページにもまとめがある。

http://www.niaes.affrc.go.jp/magazine/108/mgzn10808.html

今日、目に見える生き物は人間も含めてほぼすべて真核生物であり、「大きさや形」としての多様性から見ると世は真核生物の天下である。確かに、大事なDNAを核の中にしまった真核生物は、そうでない原核生物より優れているように見える。

しかし、見方を変えると、「代謝」という点では真核生物は「好気的(酸素)呼吸」、「発酵」、「光合成」の3つに限られる。一方、原核生物代謝はきわめて多様だ(P.37)。

 真核生物と同様、多くの細菌も酸素を使って呼吸する。しかし、酸素でなく溶解した硝酸塩(NO3-)を使って呼吸する細菌もおり、そのほか、硫酸イオン(SO42-)や鉄・マンガンの酸化物を使う細菌がいる。さらに、数種の原核生物は、二酸化炭素(CO2)を使って酢酸と反応させ、天然ガスのメタン(CH4)を発生させる。原核生物はまた、多種多様な発酵反応も生み出してきた。

進化の結果として生物は多様化を進めるというのは確かに真実だが、限られた祖先から枝分かれして分化するという見方からは、進化とは祖先の多様性を失うことでもある。進化は多様性を得る面と、多様性を失う面との二面性があることは注目したい。

このことから、進化した「高等」な生き物は、進化をあえてしなかった「下等」な生き物を駆逐できないということが分かる。むしろ両者は共存すべきだということが示される。進化した生物は、それ以前の生物がつくりだした環境に適応していると考えるべき。

例えば、真核生物は窒素固定ができない。真核生物がタンパク質を合成するために利用する窒素化合物は、原則、原核生物が生成したもので、真核生物はその栄養に従属している(今日、窒素肥料は化学的に合成されているので、すべてのタンパク質が原核生物由来ではない)。世界が真核生物だけになってしまったら真核生物は生き残ってゆけない。

ダーウィンの進化論は、要するに突然変異と自然選択だが、それはもっぱら後生生物に当てはまることで、それ以前の、単細胞生物の時代、つまり生命の歴史の過半は、ダーウィンの進化論が単純には適用できないというのも面白い。

後生生物では個体の形質は子孫にのみ受け継がれる。しかし、単細胞生物では、捕食などの何らかの理由で、個体の形質が他の個体に水平的に受け継がれることがある。形質の突発的な変化が突然変異だけとは限らない。

具体的な例として、真核生物の細胞内組織が挙げられる。よく言われるように、ミトコンドリア葉緑体は、それぞれ独自の生物だったのが、真核生物またはその祖先に取り込まれて、それ以後共生するようになったと推測されている。

本書でもこのことに触れ、葉緑体は元はシアノバクテリアだったと推測し、さらに、それが真核生物に取り込まれたのは、進化史の中で一度だけでなく数度にわたると示されている。ミトコンドリアについては、それが取り込まれたのは一度だけと考えられ、その時期は不明とされている。真核生物が登場する以前、その祖先の時点ですでに共生が始まっていたとも考えられるという。

194ページには以下のように書かれている。

 確かに現状は、真核生物の起源にまつわる謎の完全な解決からはほど遠い。だが、マーティンとミュラーやハートマンとフェドロフが提示したような仮説は、自然界の姿が「弱肉強食」というより「合併吸収」に思えるような初期の生命進化に対する見方を洗練してくれる――ヴィクトリア朝時代の資本主義社会には生存競争がぴったりだったのと同様、二一世紀の経済にはこの見方のほうが合っている。これらの仮説は、一九六七年にマーギュリスが出した論文と同じく、刺激的で、画期的で、興味深い。そのうえ、マーギュリスのアイデアのように、生物の深遠な謎のひとつに新たな洞察をもたらしてくれそうな研究を誘発する。これこそ、優れた仮説ならではのしわざなのである。

著者はその専門の立場から、隕石「ALH84001」について言及し、火星に生物がいる可能性について考察している。著者としては、この隕石に生命の痕跡が見られるということには懐疑的なようだ。

エピローグで著者は宗教と科学の関係について考察している。特に意味深に思えたので以下の部分を紹介したい(P.344)。

 ともあれ、宗教と科学の対話はそれほど重要なわけではない。その結果、過去について共通の認識に至る可能性はあるが、われわれは今、未来について意見を合わせなければならないからだ。二一世紀の夜明けを迎え、われわれは地球史の岐路に立っている。人間に生態系の支配権を握らせた技術の叡智が、現在、地球が生涯かけて生み出してきたものをおびやかしている。それゆえ、われわれの孫たちは動物のサイを写真でしか知らないようになり、そのころには熱帯雨林もテーマパークにしかなくなり、サンゴ礁も歴史書のものになってしまうかもしれない。火星の生命を探る一方で、地球の生命を失うおそれがあるのだ。

 こんなことを考えると気が重くなる。だが、未来は進化の終焉とはかぎらない。別の可能性もあるのだ。生態系の支配と惑星の歴史を考え合わせたところに、進化の倫理が生まれる余地がある。進化が残した遺産の偉大さを理解したら、われわれはそれを維持しようという気になるのではないか。惑星の管財人という前例のない役目を負っていること気づいたら、叡智と誇りによって自分たちの責任を果たせるかもしれない。少なくともこの点では、信仰と科学は見解の一致を見ている。神がリョコウバトの存在を命じたのかどうかはわからないが、もし命じたのなら、われわれが絶滅させてはならなかった。