- 作者: 荷宮和子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/12
- メディア: 新書
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これもサヨクが書いたネット本。
『ウェブ炎上』はまともなことも書いてあるけど、この本は何からなにまでおかしい。むかつくところもあるけど笑えるからトンデモ本に認定する。
題名から分かるように、この本のお題は2ch。ねらーを「この貧乏人が!」と罵倒する本。なぜ貧乏人か分かったかというと、ねらーは在日、女、被差別部落、低学歴に対する差別発言はしても貧乏人には何も言わないから(P.10-11)。そんなバカな。
ともあれ、ネットの匿名掲示板とは、在日であるとか女であるとか低学歴であるとか等の、現実の世界の中でも「差別されてしまう」側の人間をバッシングすることに喜びを見出す、そんなタイプの人間にとって、心地いい空間なのである。
では、現実の世界の中でも「差別されてしまう」側の人間をネットでたたいている人たちとは、現実の世界の中では「決して差別されない」側に属する人間である、と言えるのだろうか。
こう考えたとき、一つの疑問が浮かんでくる。
現実の世界の中では「差別されてしまう」要素であるのに、なぜかネットの中ではそのことをバッシングする書き込みが見当たらない属性がある、ということだ。
すなわち、
「貧乏人のくせに」、だ。
あるとあらゆる差別がうずまいている、と言えそうな匿名掲示板なのだが、この種の書き込みは、意外と見当たらないのである。なぜか。
「バッシングしている人自信がそうだから」
もしかして、これが答えなのではないのか、最近の私には、そんあふうに思えてきているのである。
もともと「声に出して読めない」とは差別発言がひどいということだ。しかし、差別に対する批判が往々にして論敵に対する差別発言になってしまうように、この著者も差別批判が結局著者の差別感情をあらわにしてしまっている。貧乏人差別もそうだが、これも立派な差別発言(P.14-15)。
「堕胎したことがある」だの「キズモノになってしまった」だのといった次元のことで人を見下す輩は、たしかに昔からいた。いや、昔のほうが多かっただろう。が、だんだんと減ってきているはずだった。なぜなら、こういった低次元なことで人を見下すのは「無教養な田舎者」のふるまいだからであり、多くの日本人は「教養のある都会人」として見られるよう、つまり、「無教養な田舎者」と見なされないよう、努力してきたはずだからである。
が、いまのネットには、「無教養な田舎者」ならではの価値観に満ちた書き込みがあふれている。しかも、現実の社会に生きる「無教養な田舎者」ならば身に付けているはずの「愛すべき朴訥さ」や「人間としての実直さ」はそこにはない。ただただ「無教養な田舎者」の悪しき要素のみが、ネットにはぶちまけられているのである。
著者はさぞかし教養高い都会人なことであろう。
著者は「母親」についてもすごい偏見を持っているようだ(P.51)。
いままで母親は、「未来からの使者である子供達のために」といった、こっ恥ずかしい言い回しぐらいしか、手に入れることができずにいた。
が、「マジレスでスマソ」といった類の2ちゃん語を獲得したことで、いままで以上に幅広い感情に基づいて発言するためのボキャブラリーを手に入れることができたのである。
人間てのは、母親になるとボキャブラリーが欠乏するのか。2chでやっとそれを取り戻したのか。まさか!
著者がサヨクであると判断されるのは、その反戦思想であり、差別主義者を差別するほどの反差別意識の持ち主であり、フェミニストであるから。そのうち「反戦」に関するトンデモ発言をまず紹介したい。
102ページ。
ところが、そんなことを続けているうちにふと気がつくと、いつの間にか日本は、戦争を始めるための道をまっしぐらに進み始めていたのである。
結果、いまの日本は、「反戦」を主張すると、国防を強化することに異議を唱えること、すなわち「非国民」呼ばわりされてもしょうがないこと、といった空気に満ちている。ほんの少し前までは多くの人たちが共有していた「素朴な反戦思想」が、大多数の日本人の心から消えてしまった。
いや、9条の会とか、反戦団体はまだまだ元気だと思うが。諸々のアンケートでも、憲法9条の改正に関してはまだまだ賛成と反対がせめぎあっていて、どちらかが優勢という状態には至っていない。
一方、戦後長く自民党政権が続いていて、自衛隊も広く日本人に受け入れられているということを考えると、「素朴な反戦思想」を「多くの人たちが共有していた」という認識もどうかと思う。むしろ「素朴な防衛意識」こそが共有されているのではないか。
ともかく、この辺は著者の意識のありようを示しただけで、まだ笑えるというほどのことではない。すごいのはこの後。
110ページ。
ホンダの二足歩行ロボット・アシモが小泉首相の外遊に同行し歓迎された、という報道に接したとき、「日本の戦後民主主義は間違っていなかった」と思った覚えがある。
そもそもなぜ他の国ではアシモのようなロボットが開発されていないのか。
「だって人間型ロボットなんか作ったらやばいじゃん!」=「『人間型ロボットの開発』=『死んでもかまわない兵隊の大量生産』につながるに決まってるじゃん!」
軍隊を持つ国ではこれが現実であるため人間型ロボットの開発についてはいささか腰がひけているというわけだ。
が、日本は違う。どんなに優秀な人間型ロボットを開発したところで、直接「商売(=軍隊への納入)」につなげることは難しいため、かえって心置きなく人間型ロボットの開発にいそしむことができたのだ。
!
人間型ロボット=ロボット兵士。この連想もすごいが、軍隊がある国はロボット兵士の開発に腰がひける?! だから日本以外は開発しない? 論理展開がすごすぎてついていけない。
人間型でなければ、アメリカとか既にロボット兵器の開発に力を入れているわけだが。実用化されているUAVも広い目で見ればロボット兵器だろう。
日本が開発するものは兵器に転用されない、という思い込みもすごい。普通に戦闘機とか戦車とか開発してるというのに。
これが「素朴な反戦思想」の思考回路なのか…。
130ページ。
では、これらの人間が好き放題をした結果として、いざという時が来てしまった場合、私たちはどうすればいいのか。
「良心的兵役拒否」
こういった選択がある、ということを、近ごろのメディアはまったく伝えようとしないので、ここで私は、次の一文を引用したい。
引用しているのは、アメリカでカーター政権のとき徴兵忌避者が恩赦されたという話。
著者は徴兵忌避と良心的兵役拒否が全然違うものだというのを分かっていない。
有事が来るかも分からないのに、その時徴兵制になるかどうかも不確かだというのに、そこにさらに「良心的兵役拒否」の制度ができるかなど知る由もなく。おまけにそこで徴兵忌避の話をされても、メディアとしてどう反応すればいいのやら。
134ページ。
が、実はもう一点、私の中には、政治家による靖国参拝を許しがたい、と考える理由があるのである。
すなわわち、「やつらには戦没者を悼む気持ちなどこれぽっちもない」ということが見え見えであるため、政治家による靖国参拝を容認したくない、という気持ちが私の中には存在しているから、なのである。つまり、「政治家による靖国参拝を要求する人たち」よりも、実は私のほうが、「戦没者を追悼したい」という気持ちは強い、と言えるはずなのである。
そもそも、自分のほうが気持ちが強かったら、他の人の参拝に難癖つけていいのかという話があるが。
どのような基準で、靖国神社に参拝する政治家より著者のほうが戦没者を追悼したい気持ちが強いという判断に至ったかというのがまったく分からない。ただ「見え見えである」と書かれても、では何がどう見えたから「やつらには戦没者を悼む気持ちなどこれぽっちもない」ということが分かったのか。肝心なところが何も説明がない。
これほどユニークな政治家の靖国参拝否定論はめったにないだろう。
143-144ページ。
「私欲のために人を殺すのはさもしい」
この一文は、『サブカルチャー反戦論』(大塚英志/角川文庫)のあとがきに書かれてたものである。
「私欲のために人を殺すのはさもしい」という倫理に則り、大塚は、いまのアメリカやそんなアメリカに追従する日本の姿勢を糾弾する。
が、その趣旨にいちいち頷きながら、同時に不安になる私がいる。
「果たして、いまの若者に、この一文の意味は通じるのだろうか? と。
そう、いまの若者に向かって、「私欲のために人を殺すのはさもしいことなんだよ」と訴えたところで、「さもしいって、そんなにいけないことなの? と返されるのではないか、という不安もある。
法律はおろか、倫理や道徳にすら違反してはいないけど、でも、やっぱ「さもしい」ことは、やっちゃあいけないことなんだよ。
不安になるのはこっちだ。「私欲のために」人を殺したら「法律はおろか、倫理や道徳にすら違反してはいない」わけがあるか。サヨクの倫理観では、殺人は「さもしい」から駄目って、その程度のものなのか?
また、兵士が戦闘で敵を殺すのは、死刑執行人が刑を執行するのと同じで、「私欲」ではない。兵士だって私欲で人を殺せばさもしいどころか殺人罪だ。
「私欲のために人を殺すのはさもしい」と言ったところで戦争を止められるわけがない。
もちろん著者は憲法改正には反対(P.244)。
「アメリカによって押し付けられたから」というだけの理由をもって「日本国憲法」の値打ちをことさらに貶めたがる輩が少なくないが、そもそも日本人には、理想的な憲法を作り上げる能力などない、という事実については、ちゃんと認識しておくべきだと思う。
その「事実」ってのは、どうやって証明されるのか。
こんなユニークな護憲論もはじめて見た。
フェミニストとしてはこのようなことを書いている(P.142-143)。
そこで今回も、あえて私は、女が口にすれば眉をひそめられるけれど、男ならば平気で口にすることができる表現を用いて主張したい。
(1)「誰を殺すか(殺さないか)」
(2)「誰に○○○を○っこむか(○っこまないか)」or「誰の○○○を○○えこむか(○○えこまないか)」
本来、これらは皆、個々人が決めるべきことである。組織、ましてや国家によって決定・強制されてはいけないことなのである。
これこそ、私が主張したいことなのだ。
当ブログの品位(一応気にしてます)を落したくないので一部伏せ字にした。
ちなみに、これが「今回」ということは「前回」は何かというと、石原都知事の「ババア発言」に対抗して「石原インポ説」を提唱したそうだ。
他にも185ページにもひわいな表現が出てくる。
ここには、フェミニストのおぞましさがカリカチュアされている。「私的な場であれば、この程度の「品のない語句」を男たちは平気で口に出しているのだし」(P.139)などと言うが、偏見もはなはだしい。男なら許される、などといって汚い言葉を使っても、フェミニストなら軽蔑されないとでもいうのか。反差別を言い訳にした放縦は見ていて気持ちいいものではない。
百歩譲って、「男の表現」を使って論点がはっきりするのならまあそれも仕方ないかもしれない。しかし、ここに書いてあるような主張をして、何がどうなるというのか。
これに続くのが(P.143);
が、世の中にはそうは考えない人たちがいる。自分で決定する自信がない類の人間である。その種の人間は、戦争も従軍慰安婦も肯定してしまう。否定する自信がないからである。
先の戦争は、「日本人とは、所詮はそういったメンタリティの持ち主である」ということを証明した戦争だった、とも言える。
そして現在、まだ正式な「戦争」は始まってはいないが、上述の二点を自分で決められない人間は、確実に増加しつつある。
「誰を殺すか」とか「誰に〜」を個々人が決めちゃまずいだろう。「○っこむ」を自分の判断だけでやったら性犯罪で最低限相手の了解をとらなきゃいけない。勝手な判断で人殺しても誰も褒めてはくれない。
こんなことが戦時中と戦後で価値観が変わったと言われても戸惑うだけだ。
現状認識も戦時中に対する認識もことごとく狂ってるとしか言いようがない。