実はこのお寺、80年代頃まで戦車があったことでも知られる。戦車はおそらく自衛隊で使っていたM24中戦車で、ネットにて1985年に撮影された写真が確認された。
理由は、茂林寺に戦車第2師団工兵隊の戦死者の遺骨が埋葬されいてるため。
後ろの慰霊碑の碑文は下記に写しがある。
http://burari2161.fc2web.com/sensya2sidankouheitai.htm
昭和20年1月、ルソン島で上陸してきた米軍を迎え撃ち、97中戦車対M4という戦力差ながらも善戦。約一ヶ月にわたり前線を守った。その後戦車を失った部隊は山に篭って戦うも5月に全滅した。
慰霊碑は昭和35年8月の日付で、激戦地サクラサク峠の土をここに供えたとのこと。手前の石柱はより新しく、「遺骨埋葬」と書かれているので、その後ルソン島を訪れた方が遺骨を持ち帰り、茂林寺に埋葬したと推測される。
戦車第2師団の戦いといえばもうひとつ。北千島に移動した戦車第11連隊が昭和20年8月18日、占守島に上陸したソ連軍を迎え撃った。部隊は大きい犠牲を出しつつも上陸部隊を占守島北端まで押し戻した。
千島列島での日本兵の戦いはソ連の侵攻を遅滞させ、民間人の退避の時間を確保して多くの人を守った。また、ソ連が北海道占領をあきらめた理由のひとつと考えられ、日本の国土の防衛に大きく貢献した。
参考資料:『ミリタリー・クラシックス』Vol.12、2006年冬。
なお、戦車はないが戦車の台座のコンクリートはまだ残っている。
境内にはもうひとつ石碑があるのに気づいた。
「敬弔碑」と題され、碑文は第5飛行師団および同配属部隊と同協力部隊への感状。日付は昭和20年1月1日で署名は南方軍総司令官寺内寿一元帥。
感状は師団長田副登中将が昭和19年12月に帰国した際に贈られることとなったのではと推測される。
ただ、石碑は戦時中に建てられたにしては新しいので、感状の文面を写してそう古くない時代に建立されたものと考えられる。
なぜそれが茂林寺にあるのかは分からない。
Ingressをはじめて気がついたが、実は戦争関係の石碑はそこらじゅうにある。特に日露戦争を記念した石碑は多い。今後もそういった戦争の記録に注目してゆきたい。