埼玉県の高沼用水路を夏に始点から与野東中学校まで以前歩いた。
その後さらに下流まで歩いたのでそのレポートなど。
中学校の前から探索開始。水草が相変わらず揺れている。
脳内で再生されるバッハとともに下流へ。
この辺もまだ流量がかなりあり水もきれい。
しかし中学校の角の橋の先は狭くなり、両岸に草が生えている。黄色い花はセイタカアワダチソウ。
そして国道17号との交差は交差点の下を暗渠で通過。
交差点の先も狭く、現代ではとても水運に使えそうにない。
同じような流れが続く。
草刈りなど手入れはされているが、用水路としての用途はほとんどなしていない模様。
架かっている橋は昭和初期テイストのコンクリート橋。
水草は生えているのでまだバッハの再生は続く。
それにしても水路が狭い。常時はこの狭い水路を流れ、大雨のときなどは水路全体を流れるという作り。
狭いまま下流へ。
そして与野本町近くの分岐点が見えてきた。
水門があって、本線は道を渡り南へ。支線が右の西方向に分岐している。
本線が道路の下をくぐって続く。
支線は手前のゴムの水門で遮られ、右横のバイパスから流れてゆく。
道を渡って本線の先を確認。
なんと、流れが止まってる。流れる水は全部バイパスから支線に行っていたとは。
与野中央公園位置では高沼用水路は完全に涸れていて、ところどころ水たまりがある状態。
この水たまりは雨水などが溜まっているというより、このあたりの地下水位がこの高さだ、と考えるのがよさそう。
支線は途中で歩道の下の暗渠になってしまい、この鴻沼排水路にどこかで合流しているはず。
追記:橋とともに鴻沼排水路を渡り、西側の用水路になっているのをGoogle Earthで確認しました。
橋の下で合流点があるような気がするが、流量の割に音など聞こえず、どこで排水路と合流しているのかは謎。
江戸時代に整備された用水路は、このように排水路とセットで開発されたものが多いらしい。
上流の川の水を、水位を保ったまま台地の脇を流す。これが用水路。台地の脇に整備すると、堤防を低い側だけ作ればいいので整備が容易になる。
そして、用水路より低い位置にある水田に水を引く。
水田をへた水は、より低い位置にある排水路に流れる。排水路は自然河川をまっすぐにしたものが多いように思う。
ちなみに高沼用水路は鴻沼という沼が大宮大地の西にあったのが語源。鴻沼が読みが同じ高沼に変化した。鴻沼を干拓して水田にし、これに水を引くために開発したのが高沼用水路。今は水田はほぼ住宅地になっている。
台地の脇の用水路と低地の排水路というセットは注意してみるとわりとよくある組み合わせなので、皆様も身近な用水路を探して先人たちの思いに触れてみてはと思う。