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「AをやめてBをやれ」論法の危うさ

ネットではいつも不毛な議論が続いているが、その中でよくあるのが、「AをやめてBをやれ」論法。

「防衛費を減らして福祉を増やせ」、「戦いなんかくだらない、俺の歌を聞け」等。

これに対し「『AをやめてBをやれ』というのはほとんどが『Aをやめろ』が本音だ」という指摘が既にある。そんなことは小学生でも分かる。そこで止まっていたら人は「AをやめてBをやれ」論法がもたらす不幸から抜け出せない。

「AをやめてBをやれ」は、「反対するなら代案を出せ」に対して先回りして代案を提示しているので、ただ「Aをやめろ」というより説得力があるように感じられる。そのせいか人気がある。

特に、Bを反論されにくいものにすると当然「Bをやれ」に説得力があるため、「Aをやめろ」も説得力があると勘違いされる。

しかし、この論法はいくつか問題がある。最大の問題は、AとBがゼロサムの関係でなければこの論法は成立しない

AとBがゼロサムなら、「夜8時から10時までの間はゲームをやめて宿題をしなさい」という論法は成りたつ。2時間という限られた時間はゲームをしなければ他のことができる。

「AをやめてBをやれ」論法では、しばしば問題がゼロサムだと勘違いされる。「防衛費を減らして福祉を増やせ」という意見はその代表。国家予算は税収やら何やらで変動する。「予算を増やしてその分を福祉に当てろ」の方が筋がいい。

これを図にするとこんな感じ。ゼロサムを想定すれば「AをやめてBをやれ」の結果、Aを排除できてかつBが増えて都合がいい。しかし、ゼロサムでなければ、Aを排除しなくてもBが満額かなうかもしれない。常にこういう柔軟な思考を保っていたい。

別の観点としては、「AをやめてBをやれ」論法は味方を増やすのに向いてない。何かを成し遂げたいなら味方を増やし敵を減らすのがふさわしいやり方。味方を減らし敵を増やすやり方は自己満足はできても結果に結びつかない。

「Aをやめろ」に賛同する人の確率をpA、「Bをやれ」に賛同する人の確率をpBとすると、「AをやめてBをやれ」に賛同する人の確率はpA×pBとなる。常識的に確率の値の範囲を0<pA<1、0<pB<1と想定すると、pA×pB<pA、かつpA×pB<pBとなる。「AをやめてBをやれ」に賛同する人は「Aをやめろ」と「Bをやれ」にそれぞれ単独で賛成する人より少ない

図にするとこんな感じ。

単に「Aをやめろ」と言うより「AをやめてBをやれ」と言う方が説得力があり味方が増えるだろうという期待もあるかもしれないが、確率からはそういうことは起こらない。

味方を増やす観点からは、「Aをやめろ」と「Bをやれ」を別々に言う方がいい。それぞれに賛同する人をどちらも味方にできるかもしれない。もしそうだとすると、賛同者の確率は最大でpA+pB-pA×pBとなり、pApA×pB、pB>pA×pBなのでpA+pB-pA×pBはpAとpBのいずれに対しても大きい。

図にすればこれだけ多くなる。

この計算はpAとpBが独立だという仮定に基づいている。実際には多分、「Aをやめろ」に賛成する人が「Bをやれ」に賛成する確率は、条件を設定しない場合の確率より大きい。

「AをやめてBをやれ」論法の一番危ういと思えるところはここ。確率pAとpBが独立かもしれない、という可能性を見失いやすいのではないか。「AをやめてBをやれ」論法で支持される確率が減ることに気がつかないとしたら、その理由は「Aをやめろ」に賛成する人が必ず「Bをやれ」に賛成すると思い込んでしまうから。現実には2つの項目が完全に従属するということも考え難い。つまり「Aをやめろ」に賛成する人が「Bをやれ」に賛成である確率は1に近いかもしれないが1より小さい。

なぜ確率を独立だと考えることができないかというと、人の信念はその人の中では体系だっているため、他人の信念体系がそれと違うということを想像するのが難しいため。自分は当然「AをやめてBをやれ」と思っているから、「Aをやめろ」に賛成する人は皆「Bをやれ」と思っているはずだ、と錯覚しやすい。このため、「『Aをやめろ』はいいけど『Bをやれ』とは思わない」といった部分的な反対に出くわすとバグる。

このとき、頭の中で「Aをやめろ」と「Bをやれ」が十分分離できていれば、「Bをやれ」の反対意見は「それはそれ」で対処できる。しかし、人の思考の難しいところは、「Bをやれ」に反対されると「Aをやめろ」にも反対されたと思ってしまいやすいこと。「AをやめてBをやれ」論法の本丸は「Aをやめろ」だから、これは耐え難い。

「Aをやめろ」と「Bをやれ」を独立させておけば、「Aをやめろ」が重要ならこれに対する反対意見だけ対処すればいい。「AをやめてBをやれ」と主張をしてしまうと、「Bをやれ」に対する反対意見も「Aをやめろ」の否定となって、これにも対処しなければならない。かくして不毛な議論が続いてゆく。

この結果、「AをやめてBをやれ」に賛同してくれる少数の人だけが味方と認識され、「AをやめてCをやれ」などといった似ているけどわずかに違う人を排除するようなことが想像できる。賛同者が少人数になり思考が先鋭化するというのは世の中でよく見られる現象。

「AをやめてBをやれ」論法の潜在的な人を不幸にする力に、人はもっと自覚的であった方がいい。