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『殺戮の天使』ネタバレ考察:神様が、そうおっしゃったから?

レイチェル・ガードナーがザックに自分を殺してくれと願う。なぜ自分で死なないのかと問うザックに、

「自殺は、駄目だから。神様が、そうおっしゃったから?」

と答える(2話)。

普通に考えれば神を持ち出すまでもなく、やってはいけないこと。それを「神が許さない」と答えるので、「ああ、レイチェルはカトリックの家庭に育ったのか」となる。「聖書で読んだ」程度ではここまで強い信念にはならないし、直近で読んでそう思ったのならそう答えるだろうが、自分がなぜそう思うのかを彼女は答えられない。それは知識ではなく育った環境で植え付けられた信念と分かる。

イスラム教とカトリックでは自殺はタブー。どれぐらいタブーかと言うと、冨高振一郎氏が『うつ病の常識は本当か』で指摘したように、統計地図でイスラム圏、カトリック圏がはっきりと人口当たりの自殺者数が低い分布になっている。

この図は2016年の図でwikipediaから。

ja.wikipedia.org

2011年の本と状況は変わらず、中東や地中海南岸、インドネシアなどのイスラム圏と、南米のカトリック圏の自殺者が顕著に少ない。欧州ならイタリアやスペインが少ない。南米で自殺率が高い国は、プロテスタントの国のイギリスが植民地にしていたガイアナと、無宗教者が多く移住したというウルグアイ

宗教は本質的に布教をするが、一番強い布教ルートは親→子。家庭では親から子に様々な信念が受け継がれ、宗教はその一つ。

終盤でレイチェルの家庭が出てくるが、アメリカのありふれた中流の白人家庭というふうで、この家の信仰がどうだったかは特に描かれない。が、警察官でありながらアルコールに溺れるDV夫がいて、精神を病みながら母親が死なずに生きてきたのは、信念として自殺が宗教的タブーだったからと考えると整合する。

でまあ、死にたいからと殺人鬼に殺してください、「はいどうぞ」では、殺人鬼はただの手段で当人の意思で死んだことには変わらない。さすがにレイチェルもそれはないと分かっているので、ザックの逃亡を助けることにする。

ザックはザックで、レイチェルを必ず殺してやる。「神に誓ってなw」という答え。

いくら神に誓うといっても、自分の名前も読めないような人間(この設定自体が振り切れててすごい)の言うことをすぐ信じるのもどうかとなるが、相手を値踏みするより自分の願望が強すぎてそれで信じてしまった様子。

ザックが神に代わって自分を殺してくれるというレイチェルの信念は、B2で神父にさんざん砕かれる。「ザックが神に誓いを立てたとして、その誓いを神が選ぶか、君には分かるかね?」、「もし神の御心が願いと違ったとき、君はどうする?」(9話)。

レイチェルが必死に助けようとしているザックは「神なんざ、この世にいねえんだよ」と言ってさらに突き放す(9話)。

9話まで来てレイチェルの気持ちが神に大きく依存していることが示される。それはいわば「神の奴隷」。

何事も神が第一。善悪も今日何をするかも神に決めてもらわなければならない。それは信心深いというよりやはり、「神の奴隷」と言った方がいいだろう。中世のヨーロッパではそれに近い状況で教会が神の意志を独占し、挙句魔女裁判で無辜の人々を数多く殺してきた。神父がB2にいるのはおそらくそのせい。

ただ、意識としては「神の奴隷」でありながら、無意識的なレイチェルの行動はやや違っている。傷ついたザックを助けようとする姿に、「自分を殺してもらうため」という打算はほとんど見られない。9話でレイチェルはザックから「神はいない」と告げられ、ナイフを渡される。そして薬を探しに走り出す。ここからは「神の奴隷」から一歩踏み出すためのレイチェルの試練が始まる。ナイフは自分は自分で守るという意思の象徴。これを渡したザックも、もう殺すことしか知らない愚者ではない。

その試練の一つがゲーム3話のクライマックスでもある10話の魔女裁判。キャシーの「私が一番悔しかったのは、この女の罪人ぶりに、喜んじゃったことなのよ」は草。

ちなみに死んだはずの殺人鬼が復活しているのは、前に書いたように彼らが地獄の仕置き人でどちらかというと天使で人間でないからで、舞台が現実と違うのだから登場人物もほぼほぼ人外というのはごく自然。

魔女裁判で神の奴隷が神に裁かれる、という状況。裁かれるだけの罪状が次々に証言され、実際レイチェルがそれだけ罪深いというのは間違ってはいない。結果火あぶりになる。

もし心の底から神の奴隷であったなら、火あぶりの刑を甘んじて受けることになるのであろうが、レイチェルは刑を受け入れたくない自分に気付く。自分が魔女でないことも強く自覚する。

レイチェルがザックの逃亡を助けていたのは、「自分を殺してもらう」という打算のためではないと気づく。言葉では特に言わないが、ザック自身を大事に思っていて、だからこそ助けたいということを強く自覚する。そしてそれは、神の意思に背いているとかそういうことではなく、自分が本当に信じるべき神に気付いたということでもある。魔女裁判の炎を消したのは、彼女が神の奴隷をやめ、自立した人間として神と向き合うということに気付いたから。

この彼女の心の変化が、10話でザックの傷を縫ってあげるシーンにもよく表れている。縫ってどうにかなる傷ではないのに、それでザックの容態がだいぶマシになるのはストーリー上の必然。

そう、結局作品自体が神を否定していない。しかも、ハリウッドの映画並にキリスト教と向き合い、現代でも通じる価値観で話を作っている。だからこそこの作品は「いいぞ」と感じる。