Great Spangled Weblog

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自分を無条件に肯定する人々

私がワッチしていて楽しいと思うのは標題のような人を見つけた時。

昨日のJANJANの記事を知った時は「ひゃっほう」と心の中で叫んだ。道徳レベルが高い人は何をしてもいいという発想がたまらない。

  1. 正しい人は何をしても正しい
  2. 正しい行いをする人が正しい

2の立場が常識だと思っているのだが、どうも1の立場にハマるケースはシャレにならない程あるようだ。

古い話だが、1980年代にTBSの番組で、一般のソ連人と日本人が話し合う番組があった。議論が噛み合わなくて面白かった。

日本人「ゴルバチョフ書記長が間違いをしたらどうするんですか」

ソ連人「私たちが選挙で選んだ指導者が間違いなんてするはずないじゃないですか」

確かに選挙では間違いを犯す公算の低い人が選ばれることが多いだろうけれど、当選が政治家の無謬性を保証するものではないだろう。不適切な政治家を選挙で落とせることは民主主義の意義の一つだろうに、それが機能していないソ連式民主主義のいかがわしさ(と公の場ではこういう発言をせざるをえないソ連という国の体制)に笑った。

そもそも書記長は選挙で選ばれるのか、というのもあるし(政治家としてはどこかで選挙があって選出されたんだろうけれど)。

神ならぬ人間が無謬であるわけがない。誰かを道徳的レベルが高いと賞賛したところで人が神になるわけはない。人の無謬を信じることは人の誤謬のひとつだろう。結局は行いの正しさを評価してその人の今後の正しさを推測するしかない。自己の無謬性を信じるなど論外。のはずなんだがなぁ…。面白い事象があとをたたない。

なお、これは思想の右左関係なく、私が左側のほうをよく取りあげるのは、単にそれがケース数が多くてよく目についたりマスコミなどで影響力が大きそうだったりして面白いからに他ならない。

ちなみに右側をネタにした例はこちら:id:spanglemaker:20041121#p1。