傭兵の台頭・武人の復権

斎藤氏誘拐のニュースでイギリスの警備会社が話題になっている。

イラク駐留の外国人部隊の警備を民間の警備会社が警備している、というのは何か奇妙な気がする。

国民国家の成立以来、戦争は王侯貴族ではなく国民のものとなった。それが、歴史が一回りして、また武人や傭兵の地位が復活しつつあるようだ。

軍事には何が何でも軍隊、という固定観念が変わり、兵士と傭兵とで役割分担がなされてきている。

軍隊の方も徴兵制から志願兵制へ、というのが世界の流れ。

近代国家がよって立つ「自由と平等」というイデオロギーは軍事の王侯貴族による独占を否定したが、時代がめぐって、ふたたび軍事が小数のエキスパートのものとなりつつある。

それはそれでよいのだろう。近代以前と違い、今は軍事のエキスパートは世襲制ではなく、意思と能力があれば誰でもなれる。平等とは均質(結果の平等)ではなく、機会の平等なのだから、これは「自由と平等」に反しない。

そして、戦争が「多数の国民」のものから、「小数の専門家」のものへと時代は移ってゆくのかもしれない。「小数の専門家」は世襲制によらない新しい時代の武人であり、近代的な「会社」が運営する新しい時代の傭兵となる。

そうして時代が逆戻りしてゆくわけだが、それも捨てたものではない。「自由と平等」という国民国家イデオロギーは国民皆兵を必然とし、ニ度の世界大戦でおびただしい出血を人々にもたらした(共産主義はさらにその上をゆくわけではあるが)。

小数の専門家が戦う時代には、そのような戦争はもう起こらなくなるだろう。

人々が本当に腐心しなければならないのは、戦争を起こさないことそのものではなく、無辜の市民が戦争の犠牲にならないようにすることなのかもしれない。

それはつまり、戦争の専門家にいかに戦争のルールを守らせるかということであろう。必要なルールは既にある。ルールを守らせるよい方法も、長い戦争の歴史の中に答えがあるのかもしれない。

言えることは、軍事を学ぶことを放棄すれば、危機にあたり、統率されない市民が戦争のプロと戦う事態となるということ。それがいかに悲惨な結果となるかは明らかであろう。「学ばない」ことでものごとが好転することはなく、それは軍事も同様だ。