- 作者: 的場昭弘
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2004/12/14
- メディア: 新書
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19世紀の思想を見直すことなく無理やり現代にあてはめようというトンデモ本。
近現代においてニ度の大戦よりも多くの犠牲を人類に強いてきた最強最悪の邪教、共産主義。そのドグマが大変よく分かる。
ノストラダムスの研究家はその詩に未来が預言されている、という前提を一切疑わず、世の中の事象を無理やり詩にあてはめようとする。
マルクス主義者も同様だと分かる。
経済が政治や歴史を動かす、というドグマをまったく疑わない。
例えばP.60。
まず、社会運動において経済的要求と政治的要求とを分けてはならない。
現実の世界では政治が追求するものと経済活動が追求するものは必ずしも一致しない。経済的な結びつきの強さと裏腹の政治的な対立など、今の日中関係に限らずザラにある。
利己主義=資本主義=悪、共同体意識=共産主義=善というまったく無邪気な2項対立の構図。せっかくの共同体意識も国家を志向するのはよくないという。労働者が会社の枠や国家の枠を越えて連帯するのが理想なのだとか。人の行動は経済原則で説明し得るという唯物論(つまり人は利己的)と共同体意識が共産主義革命を達成するので資本主義はいずれ倒れる、というのは矛盾するように感じられるがマルクス主義を深く知るとそういう疑問はなくなるのだろうか。
かように共産主義の土台となる、人の共同体意識はスピノザのキュピディタス・モデルに由来するとされる(P.54)。
しかしこの原理は、利己的個人の存在を保証するものではなく、むしろ自らを守るために他者へ気遣いをするという、他者への欲望(キュピディタス=Cupiditas)の原理を導き出します。生物の歴史が類の歴史ならば、人間の歴史も類の歴史でなければならない。こうした類の基本原則が共同体――キュピディタス・モデル――です。
共産主義とは科学的社会主義だとされる。しかしその科学は、このとおり19世紀以前で止まっている。
進化論を少しでもかじったことがあれば、進化の単位は種ではなく個体だという常識はご理解されているであろう。また、生物の利他的行動が遺伝子の利己的なふるまいから説明できるということは先に話題になったドーキンスの『利己的な遺伝子』(ISBN:4314005564)が巧く説明している。
ここには「キュピディタス・モデル」が自然現象に即してより進展した姿があるであろうし、さらには社会生物学を参照すれば「利己主義」と「共同体意識」(利他的行動)が対立事項とはならないことも見えてくるはずだ。
しかしマルクス主義者は、そういった自然科学の最近の話題にはコミットする気はないらしい。実に見事な知的頽廃がここに伺える。
まだ前半1/3を読んだだけなのだが、面白い本なのにトンデモ本としての評価があまりないようなので取り急ぎ書評を書いてみた。続きはまた後日。