社会的性差

ジェンダーフリー運動とは社会的性差を解消する運動。

肉体的性差はどうにもならないとしても、社会的性差は後天的にもたらされるものであるから、これを解消すれば性差別はなくなる、ということで推進されているらしい。

しかし、素朴に考えると肉体的性差があるから社会的性差があるのではないか。MacとPCでOSが違うように、PCでもマザーボードによってBIOSが異なるように、ハードウェアが異なれば最適なソフトウェアは違ったものになる。

こういう時に2chあたりを眺めていてなるほどという記事を目にした(大意)。

社会的性差とは、肉体的性差による不平等を補完するためにある。

例えば一般に女性は夜遊びを戒められる。性犯罪の被害者は一般に女性であり、性的に奔放な結果として望まない妊娠という災難を被る可能性があるのも一方的に女性である。とすれば、女性の夜遊びを戒めるという社会的性差は、リスクを男女で均等化するという効能を見いだすことができる。

逆に言えば、ジェンダーフリー運動を推進して社会的性差をなくしてしまうと、男女の肉体的不平等がむき出しにされることとなる。それが果たして望ましいことなのか。

答えは自ずと明らかだろう。

もちろん、社会的性差は肉体的な不平等を補完する、または人間的な魅力をより増すものだという文脈でこそ正当化されるのであって、あからさまな男尊女卑だとかいった不合理な男女差別が肯定されるというものではない。例えばタリバンが実効支配していた時のアフガニスタンのような状況。こういうのはさすがにイカンだろう。

http://mltr.e-city.tv/faq06e.html#taliban-education

実際のところ、ジェンダーフリー運動は肉体的性差も否定しているとおぼしき事項がいくつかある。その辺についても、記事にまとめられそうだったらそのうちまた何か書いてみたい。

とりあえず、サヨクのいう「平等」は「均質」であって真の平等ではないということは記しておきたい。

例えば、女の子のために桃の節句があり男の子のために端午の節句がありそれで十分男女平等。これが理解できずに男女分けるのはおかしい、ムキー! というのがジェンダーフリー運動なわけである。