地震発生
3月11日、東北地方太平洋沖地震。発生時、たまたま東京に出張していた。
土木学会と地盤工学会が共同でクライストチャーチ地震の現地調査報告会を開催している、まさにそのときに地震が来た。場所は東京大学生産技術研究所。
突然チャイムが鳴り、「誰だろう携帯鳴らしてるの?」と思っている間に「間もなく震度3の地震が」と続き、緊急地震速報だと分かった。
なんだ震度3か、とほっとしているとじきに揺れはじめ、すぐにとんでもない揺れになった。会場が大騒ぎになり、「これはやばい!」と逃げ出す人も続出した。
自分は、新しい建物だから相当な揺れでも人命は保護されるだろうと考え、頭の上に重量物がないのを確認してから、天井が落ちてきても大丈夫なように首をすくめて、椅子と椅子の間に身を潜めた。
会場での揺れ具合が2004年の新潟県中越地震での自宅での揺れに似ていたので、震度5弱だろうと、それを紙にメモしようとして、字がまともにかけないほど落ち着きを失っている自分に気がついた。
ワンセグでニュースを確認したら東北地方で大地震とのこと。このときの津波の予測は3mと実際よりかなり低かった。
報告会はすぐに中止になった。怪我人などは出なかった。
建物は損傷はなかったがエレベーターは止まっていた。外に出ると、学生らが中庭に集まって、教官か職員から何か指示を受けていた。
新しい東大生研の建物は耐震用のブレース材も含めて健全だった。今の建物は震度5強ぐらいまでは損傷しない設計なのでその通り。
これが移転前の六本木の生研だったらどうなっていたか。昭和初期に建てられた陸軍第一師団歩兵第三連隊の兵舎だった。耐震補強されていたかもしれないが。
古い建物も無事だった。建物が壊れないほどの揺れであれだけ恐怖を感じたのだから、より震度の強かった地域の人々はどれほどの思いをしたか、想像もつかない。
鉄道が止まり歩いて移動
鉄道が動き出すのは少なくとも2,3時間はかかるはずなので、その間歩いて都心を目指すことにした。複数の鉄道がある都心ならどれかが先に動くかもしれない。
井の頭通りを代々木方面に歩き出した。
程なく代々木公園。NHKが見えた。
原宿駅前。歩道橋に上がろうとして足がつった。普段の運動不足がたたった。
表参道。都内の建物はおおむね損傷がなかったが、この店は3階あたりから漏水して閉店していた。
表参道から、歩いている人がどっと増えた。
青山通りに入った。東京タワーと六本木ヒルズが見える。スマホのカメラでは東京タワー頂部が曲がっているのは写らなかった。
これからどの道を通ってどこへ行こう、とスマホのGoogleMapを開いたが、アクセスが集中しているらしく地図が表示できなかった。交番の前に地図があったので、それを見て道順が単純な東京駅を目指した。
赤坂見附交差点を過ぎて、国会議事堂が見えた。首都高の橋梁は損傷ないようだ。
三宅坂交差点。ようやく皇居が見えた。丸の内方面から歩いてくる人がぞくぞくといる。鉄道がまだ復旧しないことが察せられた。
この後皇居前広場まで着いて一休みした。家に無事だとメールした。
休んでる間に、疲れがどっと襲ってきた。非日常の高揚感に乗せられてここまで来たが、勢いで歩けるのは2時間、10km弱が限界だと知った。
これからどうしようか考えた。上野駅に移動して、そこで鉄道の復旧を待とうと決めた。
決めたけれど、椅子に座っている間に、疲労と不安で心が折れそうになった。それまで聞いていたラジオ(ウォークマンでFMが聞ける)は止めた。ニュースを聞いていると気が変になりそうだった。スマホでtwitterを見る余裕もなくなった。
秋葉原経由で上野へ、と歩いているうちに御茶ノ水駅に来た。ここで、JRは今日中には復旧しないことを知った。それでは上野駅に行っても明日の朝まで待つしかない。
都内の会社の事業所に移動先を変更した。そうすれば暖房があって、駅に泊まるよりずっといい。
上野までは30分程のところに来ていたが、行き先を変えたので、さらに1時間以上歩いた。
4時間も歩いていると体力も気力も相当きつい。ストレスで気分も悪くなって、夜になったのに空腹も感じなかった。たびたび足がつって痛い思いもした。インパール作戦で白骨街道を歩いて帰ってきた兵隊さんや、満州から引き上げてきた人々のことを考えて、この程度のことであきらめてはいかんと自分を鼓舞した。東京は交通のマヒ以外大きい被害はなく、自販機やコンビニで普通にものが手に入る状況ということも、いくらか気持ちを楽にした。
それにしても、42.195kmを走ってしまう人というのはどういう肉体と精神を持っているのだろう。人は数時間なら歩きとおしても死なないことは分かったけれど。
会社到着
5時間歩いて事業所についた。
やはり何人も人が残っていた。暖房が効いていてありがたかった。知り合いに会って経緯を話したら、さっきまでの疲れと不安は急に軽くなった。暖かさと仲間がいるということはこれほど力になるのかと思った。
震度5弱〜5強の揺れにあっても、建物が壊れず、電気や水道が止まらず、鉄道は止まったがその代わりある程度快適に避難できる東京は、すごい都市だ。
逆に、震度がより強く、電気、水道が止まり、建物が壊れ、津波や土砂災害にあったような場所では、この寒い中人々はどれだけ大変な思いをしているのだろう。そう思うと、暖かいところでテレビやネットを見て過ごしている自分が申し訳なくなった。
1時間もすると空腹を感じてきたので、コンビニに行った。道路は大渋滞。歩いている人も多数。コンビニはおにぎり、弁当は売り切れ。しかし、カップ麺は残っていたのでそれを買ってお湯を入れて帰った。
1時ぐらいに、応接室のソファを借りて横になった。眠るにはマイスリーが2錠必要だった。薬を持ち歩いていてよかったと思った。4時間ぐらい眠れた。
翌日帰宅
朝日がのぼり、新しい日がはじまった。
地下鉄や私鉄は前の晩からぼちぼち復旧し始め、JRが7時頃から京浜東北など動き出すというので、7時少し前に会社の人々に挨拶して、帰宅することにした。
土曜日だからまっすぐ帰れるが、平日だったら出勤しなければならない。それはたまらない。
京浜東北はけっきょく8時半ぐらいまで動かなかった。動いても東十条行きだったり次がなかなか来なかったり来ても満員で乗れなかったり。10時過ぎまで都内でうろうろして、そうこうしているうちに別ルートの私鉄が動き出したと分かり、地下鉄、私鉄を乗り継いでようやく帰宅した。午後1時頃だった。
自宅近くの駅まで行けないようだったので、また2時間ぐらい歩く覚悟をしていたが、時間が過ぎるごとに鉄道が次々と復旧し、けっきょく最寄り駅まで帰れた。
今回、ウォークマンとスマートフォンの電池はほとんど切れかけた。せっかく買ったモバイルブースターは、半日の出張だからと持ってきていなかった。ウォークマンはまあどうでもよいが、スマートフォンの電池が足りなくなったのはつらかった。泊まった事業所にマイクロUSBの充電器もケーブルもなく、スマホの充電器ならあるよ、と渡されたのはiPhone用で使えなかった。やむなく夜間電源を落として、翌日使えない事態を避けた。
朝、京浜東北の出発を駅で待っていると、会社の人や兄弟から電話があった。スマホを完全放電させなくてよかったと思った。私鉄の復旧を察知できたのもWebを見られたから。この時代、携帯型の情報機器への電源確保も、非常時にはかなり重要だということを実感した。