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撃墜王の素顔

撃墜王の素顔―海軍戦闘機隊エースの回想 (光人社NF文庫)

撃墜王の素顔―海軍戦闘機隊エースの回想 (光人社NF文庫)

太平洋戦争のほぼ全期間を零戦で戦い抜いた搭乗員の手記。

いくつか興味深いところをピックアップしてみる。

まず、ミッドウェー海戦後の日本兵に対するひどい仕打ち(P.66)。色々な戦記で色々書かれているが、杉野計雄氏の場合はこうだった。なお、同海戦に杉野氏は「赤城」に同乗して参戦、同艦沈没時に脱出して救助され、木更津に帰還している。

 木更津基地に上陸した後、海岸寄りの隊舎に入れられ、周囲に衛兵が配置されて縄張りの中で監視された。高度の秘密を知っているとの理由からだと説明された。まったく罪人扱いであったのには腹が立った。

次に、昭和18年初めごろの中国大陸での反日感情の具合(P.85-86)。

 このころ大村航空隊では、大村航空廠で完成した零戦を、教官の遠距離飛行訓練を兼ねて台湾の高雄航空廠まで空輸する仕事があった。私もその任務についた。慰安飛行のようなものだった。
 まず済州島を確認して上海にいたり、上海上空を低空で飛び回り、示威行動をして上海の戊基地に着陸する。二日ぐらい後にまた編隊でぶんぶんと飛び回って奥地に向け、高高度に上昇し、雲などを利用して密かに杭州あたりから抜け出して台湾にいたり、高雄航空廠に零戦を渡し、中攻便などで大村に帰る計画であった。
 この空輸には、大きな別の重要任務があった。上海上空を低空飛行で飛び回って示威飛行することにより、「零戦きたる」と、軍票の価値が数倍にはね上がるというほど効果があったのだ。
 上海では当時、日本のパイロット一人を殺した者には多額の賞金があたえられていたので、外出は私服に着替えていた。また、拳銃や短刀も所持して外出した。短刀を忘れたときは、扇にハンカチを巻いて持てと教えられていたくらいである。
 私は二回目の空輸のとき、集会所勤務の若い兄妹に数人が同行して立入禁止になっていた繁華街に案内してもらったが、賑やかさも桁はずれで、こんなところで殺されてもわからないだろうと思った。もちろん拳銃は隠し持ってはいたが、一人ではとても入れるところではなかった。

当時上海は戦地ではなく、相応の平和と繁栄があったことが分かるが、一方で現地人の日本に対する感情の悪さもまたよく分かる。

この本では、二五三空のラバウルでの邀撃戦闘詳報が載せられている。渡辺洋二氏の『遥かなる俊翼』(ISBN:4167249111)にある「ラバウル上空の完全勝利」に該当する日、昭和19年1月17日の記録も見ることができる(P.148)。

○一月十七日 雲量一 来襲敵機邀撃戦「ラバウル」上空
 一〇一〇 警報により発進零戦三十六機
 一〇五〇 来襲敵P38二十機、SBD三十機、TBF二十機、F4U、F6F各五十機、
      戦果 P38七機、F4U十機、F6F一機、我方 被弾三機(うち使用不能一機)
 一一三五 空戦終了、帰着三十六機

ラバウル上空の完全勝利」によると、来襲敵機は正確にはSBD29機、TBF18機、P-38 19機、F4UとF6Fが計51機。二五三空の報告は「ほぼ当たっている」とのこと。戦果は、日本側の記録では二〇四空との合計で69機となり、全機帰投して損失はゼロだった。

米側の記録に当たると、同日の損失は12機だったとのこと。内訳はP-38 8機、他にF4U、F6F、SBD、TBFが各1機という。「ラバウル上空の完全勝利」(P.326)には以下のようにある。

<略>彼我二〇〇機が繰り広げた大空戦の真の結果は、撃墜機数十二対〇で零戦隊の完勝に終った。<略>ラバウル/ソロモン航空戦史のなかで、まれに見る戦いと言えるだろう。

杉野氏についても若干の言及がある(P.322)。

 二五三空のほうは確実撃墜は十八機とある。<略>個人戦果を記していないので、誰が最多撃墜者なのかは分からない。損失機はなく、被弾が四機だけ。そのうち三機を、第一大隊第一中隊の第二小隊が占める。小隊長の杉野一飛曹の技量と性格から考えて、積極果敢な戦闘を行った結果と思われる。

杉野氏の手記の方はさらりと戦闘詳報が載せられているだけだが、その裏には激しい戦いぶりが秘められている。