Great Spangled Weblog

コメントははてなにログインすると可能になります(SPAM対策です)

若おかみは小学生!の映画について語ってみた(ネタバレあり)

2018年に公開され話題になった映画、『若おかみは小学生!』が今年の5月にNHKで放送された。

公開当初から「感動した!」という声が聞こえていたが、原作を何冊か読んでいたので、「そりゃ若おかみだから感動するでしょう」程度に思っていて、NHKの放送まで映画は見ていなかった。それを放送で見た。素晴らしい映画だと思ったが、ネットで中継しながら見ていたこともあり、「感動した」というより「衝撃だった」という感想になった。

一方で、映画について否定的な意見も聞こえてきた。どちらかと言えば自分は「感動した」に近い印象で、はたしてこの映画に否定的な意見はどれぐらい妥当なのだろう。そういえば原作は10年以上前に読んでほとんど覚えてないや。となって、それではと原作を1巻から6巻まで電子書籍を購入して読むことにした。

読んで分かったのは、映画は原作が6巻までではあまり大げさに扱ってはいない要素を取り込んで(無視しているわけではない)、それで一つの「映画」として成立させているということ。映画は原作ダイジェストではなく、映画として作者が訴えたいことを軸に95分の中にうまくまとまっている。

さすがに子供向け映画だけあってテーマが分かりやすい。おっこが両親を事故で亡くしたような悲しいことも、乗り越えることができる。あるいは、おっこが両親の死を乗り越え、春の屋の若おかみとして前に進んでゆく物語。

「物語」は課題解決のシミュレーション。課題解決を疑似体験することで人は感動を味わう。どうやら人はそういうふうにできているらしい。

若おかみの映画は、おっこが両親の死という悲しい出来事を乗り越えることを課題に選定した。

原作既読の自分が驚いたのはまさにそこ。「そんなすごいテーマに取り組んでいたのか」というのと、「そんなきつい話原作とちょっとそぐわないのでは」という2点が驚いた。しかし原作のノリはテレビシリーズの方に任せ、映画は映画として1本の太い軸をズドンと通す方向になった(らしい)。

この課題に沿って、ストーリーは分かりやすく組み立てられている。3幕構成論に沿って組み立てられているのはもちろん、映画全体で取り組む「おっこの両親の死」に対して、前半で小さく、「母親の死と向き合う少年」が描かれる。小さいループを前半で示し、後にそれが大きいループとして主人公を巻き込んで映画全体を動かす。こういうストーリー構造はよくある。

春の屋に来て「若おかみ見習い」として最初に受け入れる客が、神田幸水・あかね父子。あかねは母の死を受け入れられず、おっこと対立する。しかし、関織子としてあかねに反発したおっこも、若おかみの立場で見れば「もてなして癒してあげなければいけない客」と理解する。そうして春の屋の精いっぱいのもてなしはついにあかねの心をほぐし、彼は母の死に対して(おそらく初めて)大げさに涙を流す。そうしてあかねは前に進むことができるようになり、学校に行くため春の屋を後にする。

映画はこのエピソードと、「イマジナリーフレンド」(映画での役割、原作では幽霊と鈴鬼は普通のキャラクター)のウリ坊、美陽、鈴鬼が揃い、おっこが「若おかみ見習い」から「若おかみ」にクラスチェンジする。これが映画のちょうど真ん中。おっこは幽霊と鈴鬼を顎で使いながら(笑)、自身もはつらつと春の屋の掃除に精を出す。

さて。この映画を「過剰適応」と批判する声がある。しかし、過剰適応が描かれるのはラストではなく前半だと思う。事故の後おっこは、1人になってしまったアパートを引き払い1人で華の湯温泉までやってきた。これこそが、子供らしさを捨て、状況に完璧に適応して見せることで、つらい状況を少しでもマシにしようとしているところだろう。

マンションを引き払うまでの彼女には本当は大人のサポートがあったはずだが、そこは映画ではあえて描いていない(原作にも書かれていない)。

それが春の屋に来て、まず虫やトカゲに大騒ぎする。ここで過剰適応が崩れてくる。神田父子をもてなして若おかみとして成長しても、後半グローリーさんにドライブにつれていってもらってそこで事故のトラウマがよみがえり苦しむ。イマジナリーフレンドである幽霊2人に助けられて乗り切るが、両親のイメージが交錯し冷静さが崩れているのが分かる。

しかし、失意のグローリーさんによりそい、彼女が立ち直るのを助けることでまた一歩成長する。

季節は移り夏が終わって秋から冬へ。イマジナリーフレンドだった幽霊と鈴鬼が徐々に見えなくなる。これがグローリーさん以後の出来事であることに注意。映画の中盤の展開を通して、おっこにとってイマジナリーフレンドが徐々に必要でなくなっている。

そのおっこにも、あかね少年と同じように両親の死と向き合う試練が訪れる。これが映画のクライマックス。それまでの展開で成長してきたおっこに訪れる(映画の中で)最大の試練。

それは、瀕死の大怪我から回復し退院して、家族で泊まりに来た木瀬一家。

父親の木瀬文太は、おっこが両親を亡くした事故のとき、対向車線に飛び出してきたトラックの運転手だった。

それまで(ポルシェでの過呼吸以外は)おおむね原作のノリだったので、こんな厳しいシーンが若おかみにあるのかと驚いた。

しかし、このときのおっこは無理をして強がっている孤児の関織子ではない。春の屋の立派な若おかみである。春の屋という居場所があり、祖母とエツ子さんと康さんという新しい「家庭」がある。ライバルで親友の真月もいる。それまで必要だったイマジナリーフレンドも消えつつある。おっこが、映画が示した課題に取り組む準備は十分に整っている。

おっこが全力でもてなし、喜んでもらった客が、まさか、自分の両親の死の原因となった人物だった。

おっこは唐突に両親を思い出し、悲しみに泣き崩れてしまう。しばらくの間「若おかみ」ではいられなくなる。彼女の元にはリアルな両親のイメージが現れ、おっこはまた会いたいと喚く。

ここで、「木瀬がいなければ」とか「あの事故さえなければ」という恨みや悔しさではないことに注意。純粋に子供として、両親に会えないことを悲しんでいる。

そしてひとしきり泣いてから、今の状況を理解し(グローリーさんを含め主要キャラほぼ全員がそこにいる!)、そこで、春の屋の若おかみである自分こそが、今一番幸せで、若おかみでいれば前に進んでいけると理解する。

そうしてあのセリフに至る。

つまり、映画の結末を「過剰適応」と指摘するのは正しくない。少なくとも作者の意図とは違う。

ここであえて言うが、若おかみ映画の特徴は、こういった題材を描くために宗教的な要素を全く隠そうとしていないこと。例えば、神社の神楽に始まり、神楽で終わる。

花の湯温泉のお湯は神様からいただいているお湯。誰も拒まない。全てを受け入れて癒してくれる。

何度か繰り返されるこのフレーズ。原作では(6巻までは)こんなセリフはない。「美肌の湯」ぐらいしか言わない。

花の湯温泉で起きる奇跡は、神の恵みというふうに聞こえる。もちろんおっこたちが頑張ったから奇跡的な出来事が起こるのだけど、そういう意味では、おっこたちが頑張れる世界全てが、神の恵みだと理解できる。

命とは何であるか、人は死んだらどうなるのか、そもそも世界とは何か、さらに、善とは何か、悪とは何か。こういった人生の根源的な問いに対する答えは、基本的には宗教の中にある。だから、人が死に直面したとき、宗教の役割は非常に大きい。葬式が色濃く宗教なのもこのためだ。

宗教以外で説明する方法もあるだろうけど、この作品は逆に、宗教の中にダイブする。

前半、両親を失ったおっこと、母親を亡くした少年のいる宿のそばに川が流れていることが示される。川にはシカ、イノシシの親子、カワセミといった生き物がやってくる。

おっこが初めて泊まり両親の夢を見ているときに来たシカ。

朝が来た川の風景。

あかねの声に驚くかのようなイノシシの親子。

母の死から前に進むことができるようになったあかねと、カワセミ

この演出が示すのは、自然の中では命はめぐり、人の命も同様だ、といった大きい世界の枠組みではないだろうか。

映画は温泉が神の恵みだという以外はあまり神に言及しないが、花の湯温泉全体が豊かな自然の中にあり、そこで様々な命が息づいていることを沢山描いている。そうやって世界の枠組みを描くことで、両親という大切な人の命も、そして多分おっこや、映画を見ている人にも、それぞれの命が、ここで描かれる生き物と等しく、自然に沿って流れてゆくものだということを示している。

自然の姿に神を見出し、神の意図で世界が動いていると見せる。

成長し、さらに感情を解放し、自分が本来何であるかに気付かせ、両親の死を乗り越える。そういう映画だけど、乗り越えることができる理由は、神の作った世界の仕組みにある。神の恵みそのものが理由だ。という描き方だという見方もできる。

温泉のお湯はダイレクトに神の恵みを表している。花の湯温泉で誰も拒まず人を癒してくれるお湯。そして温泉が神の恵みであるなら、温泉でなくても、神の恵みは世界中に、誰も拒まず注がれ続けているのではないか。ハリウッドの映画は宗教をモチーフにすることが多いが、日本の映画でこういったことを描くものはあまりないと思う。

映画スタッフが宗教色をドーンと出そうと考えた背景は、真月が読んでいる『ホモ・デウス』の原書から推測できる。『ホモ・デウス』や『サピエンス全史』といった最近の知見が示す、「人にとって神とは何か」を積極的に取り入れた、ということではないか。

実はそれらの本は読んだことがなくて、関連するテレビ番組の知識で今これを書いてるのだけど。

つまり、宗教を前面に出すが、作っている人たちは「ビリーバー」ではない。自分たちが何を描こうとしているのかに十分自覚的なのだと思う。

日本人だと「神なんか信じないよ」という態度がかっこいいと見られるがちだ。しかし、人の意識から神を排除することは本当は困難だ。たとえば善悪について考えるときの思考領域は宗教が担当する区画に踏み込んでいる。だから、客観的に神が存在するかの議論とは別に、人の精神が神を必要とすることを理解し、内なる神と向き合う方が健全だろう。

若おかみ映画は、人にとって神とは何かということを考えながら、あえて宗教色を前面に出して描くという、稀有な映画だと思った。